【感想】フライングディスクゆんなり水に落ちる 兵頭全郎
- 2014/12/24
- 00:00
フライングディスクゆんなり水に落ちる 兵頭全郎
奈落から飛び出すバリライトのコード 〃
オープニングアクトの提灯行列か 〃
暗転から暗転までをジャングルビート 〃
「あの…カラマーゾフって、なんですか?」
「カラマーゾフ?」
「…ええ」
「…みんな消えていく、っていうことじゃないでしょうか」
「はあ…」
「主(あるじ)はみんな消えていくんです…まあそのていどのことです」
岩松了『カラマーゾフの森』
【カラマーゾフって、なんだろう】
『川柳カード7号』の兵頭全郎さんの「派手」からの数句です。
この連作「派手」においてはながめのカタカナがどの句にも使用されているのが特徴的だとおもうんですが、かんがえてみると、このカタカナ感というのは〈カラマーゾフ〉感にちかいのではないかとおもったりもしたのです。
カラマーゾフ感とは、なにか。
カラマーゾフ感とは、わたしはじつは、縮約できないその〈長さ〉のちからにあるのではないかとおもうのです。カラマーゾフ。ながいですよね。ドストエフスキー。ながい。
でもこれを縮めることはできない。それでは、意味がなくなってしまう。それが、カラマーゾフ感です。
たとえば、〈けんびきょう〉や〈たんきょりきょうそう〉は、顕微鏡、短距離競走と縮約できる。
けれども、カタカナはカタカナとしてしか、どうあがいても縮約できない。
それはある意味、音数が限られている定型にとっては死活問題になるはずですが、それでも「フライングディスク」や「オープニングアクト」を句に配置しなければならないときが、ある。
そのとき、その代え難さによる〈長さ〉によるちからが、あえていうならば、カラマーゾフ感なのではないか(ドストエフスキー感でもいいのですが)。
兵頭さんが『川柳カード7号』の合評会において、この連作を「コンサートのはじめからおわり」までの一連のん流れとしてあることを話されていたんですが、そうしたライヴにおける代替できない場としてのエネルギーのようなものも、長さとしてのかえがたいカタカナ語から感じることができます。
定型のなかで使用されるカタカナ語は必然的にちからをもってしまうのではないか。
とくにそれがカラマーゾフやドストエフスキーやジャングルビートのようにながければながいほどにおいて。
だからこそ、連作タイトルが「派手」と極端に短いことに、定型におけるカタカナの長さから解放された語り手の一瞬のコンサートの終わりの余韻を感じ取ることもできるのではないかとおもうのです。
なぜなら、タイトルではもうコンサートは体感しえないから。定型のなかにおいてでしか。
定型のかえがたいカタカナ語の長さ。それこそが語り手感のライヴ感だったのでないかとおもうのです。
スモークの海ステージの縁(へり)の線 兵頭全郎
ちなみに川柳では中八問題がよく出てくるのだが、以前兵頭さんの「中八考」という『週刊俳句』の記事を読ませていただき、中八をただ指をおって、ではなく、もうすこし音感から微細にとらえていく必要があるな、とおもったのだった。ときどきおもうのだが、短歌も川柳もじつはほんとは《数える》ものでは、ないのではないか。数える、のではなく、数えて《すでに》ある、ものなのではないか。それが、声になるだけなのではないか。
参考:兵頭全郎「中八考」『週刊俳句』
あなた、ひとをころそうと思ったことはありますか。
ひとを救うってのは、ひとをころすとおなじくらい罪なことです。
ひとは生きたいと思うぶんだけ、死にたいという願望ももっている。
そのバランスをいつもわかっていたいとおもう。
この川に魚はいない。
でも、ときどきこの釣り竿に魚がひっかかったと錯覚することがある。
わたしの身体がふるえる。
わたし自身がそのバランスのなかで生きてるって感じられるからだ。
わたしは、魚でもあるわけだから。
そうだろ?
岩松了『カラマーゾフの森』
奈落から飛び出すバリライトのコード 〃
オープニングアクトの提灯行列か 〃
暗転から暗転までをジャングルビート 〃
「あの…カラマーゾフって、なんですか?」
「カラマーゾフ?」
「…ええ」
「…みんな消えていく、っていうことじゃないでしょうか」
「はあ…」
「主(あるじ)はみんな消えていくんです…まあそのていどのことです」
岩松了『カラマーゾフの森』
【カラマーゾフって、なんだろう】
『川柳カード7号』の兵頭全郎さんの「派手」からの数句です。
この連作「派手」においてはながめのカタカナがどの句にも使用されているのが特徴的だとおもうんですが、かんがえてみると、このカタカナ感というのは〈カラマーゾフ〉感にちかいのではないかとおもったりもしたのです。
カラマーゾフ感とは、なにか。
カラマーゾフ感とは、わたしはじつは、縮約できないその〈長さ〉のちからにあるのではないかとおもうのです。カラマーゾフ。ながいですよね。ドストエフスキー。ながい。
でもこれを縮めることはできない。それでは、意味がなくなってしまう。それが、カラマーゾフ感です。
たとえば、〈けんびきょう〉や〈たんきょりきょうそう〉は、顕微鏡、短距離競走と縮約できる。
けれども、カタカナはカタカナとしてしか、どうあがいても縮約できない。
それはある意味、音数が限られている定型にとっては死活問題になるはずですが、それでも「フライングディスク」や「オープニングアクト」を句に配置しなければならないときが、ある。
そのとき、その代え難さによる〈長さ〉によるちからが、あえていうならば、カラマーゾフ感なのではないか(ドストエフスキー感でもいいのですが)。
兵頭さんが『川柳カード7号』の合評会において、この連作を「コンサートのはじめからおわり」までの一連のん流れとしてあることを話されていたんですが、そうしたライヴにおける代替できない場としてのエネルギーのようなものも、長さとしてのかえがたいカタカナ語から感じることができます。
定型のなかで使用されるカタカナ語は必然的にちからをもってしまうのではないか。
とくにそれがカラマーゾフやドストエフスキーやジャングルビートのようにながければながいほどにおいて。
だからこそ、連作タイトルが「派手」と極端に短いことに、定型におけるカタカナの長さから解放された語り手の一瞬のコンサートの終わりの余韻を感じ取ることもできるのではないかとおもうのです。
なぜなら、タイトルではもうコンサートは体感しえないから。定型のなかにおいてでしか。
定型のかえがたいカタカナ語の長さ。それこそが語り手感のライヴ感だったのでないかとおもうのです。
スモークの海ステージの縁(へり)の線 兵頭全郎
ちなみに川柳では中八問題がよく出てくるのだが、以前兵頭さんの「中八考」という『週刊俳句』の記事を読ませていただき、中八をただ指をおって、ではなく、もうすこし音感から微細にとらえていく必要があるな、とおもったのだった。ときどきおもうのだが、短歌も川柳もじつはほんとは《数える》ものでは、ないのではないか。数える、のではなく、数えて《すでに》ある、ものなのではないか。それが、声になるだけなのではないか。
参考:兵頭全郎「中八考」『週刊俳句』
あなた、ひとをころそうと思ったことはありますか。
ひとを救うってのは、ひとをころすとおなじくらい罪なことです。
ひとは生きたいと思うぶんだけ、死にたいという願望ももっている。
そのバランスをいつもわかっていたいとおもう。
この川に魚はいない。
でも、ときどきこの釣り竿に魚がひっかかったと錯覚することがある。
わたしの身体がふるえる。
わたし自身がそのバランスのなかで生きてるって感じられるからだ。
わたしは、魚でもあるわけだから。
そうだろ?
岩松了『カラマーゾフの森』
- 関連記事
-
-
【感想】鍋底大根なのに・だけど・だったから 斎藤あまね 2014/08/13
-
【感想】大西泰世『句集 こいびとになってくださいますか』-ファイナル・リア充のゆくえ- 2014/04/22
-
【感想】日の丸やベープマットのちいさな灯 なかはられいこ 2015/08/12
-
【感想】ラジオより流れる呪文死になさい 石部明 2015/08/22
-
【感想】米山明日歌「四国あたりが」『川柳ねじまき#1』 2014/08/08
-
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の川柳感想