【感想】リュックサック式ランドセル風介護ベッド くんじろう
- 2014/12/24
- 06:19
リュックサック式ランドセル風介護ベッド くんじろう
【背景を、詠う】
柳誌『川柳北田辺・51号』(2014年12月)からくんじろうさんの一句です。
今回『川柳カード』の合評会に出させていただいて強く感じたことなんですが、川柳観というのは、きちんとめいめいにじぶんが築いていく川柳は《こうなんだ》という一句一句をまとめあげていく《背景》としての世界観があって、そこから一句一句がつむがれては、またその各自の世界観をねりなおしていくんだなということなのではないかということです。
そこではたぶん一句としても読めるんだけれども、それが連続して世界観になったときに、また世界観のなかで意味をもってくる。
そうした有機的相互作用をかたちづくっていくことが各自の川柳観になるのかなとおもいました。
これは、穂村弘さんがどこかで言及されていた、一首一首で思いついたままにぽんぽん読んでいくのではなく、どこかでじぶんなりの世界観を構築しながらその世界観をつくりあげるように歌を詠んでいかないと歌自体が持続しなくなってしまうということや、斉藤斎藤さんがおっしゃっていたあちこちに投稿をしつづけ入選しつづることにより器用貧乏にならないで、「歌いたくないことは歌わないで」ということばとも関連しているとおもいます。
そうしたプラトンのイデアみたいな、背後の世界、歌がそこからきてかえっていくような世界、それを個人個人でつくっていくこと。
それが《個性》なのだとはいわないのだけれども、またもしかしたらそこに《私性》があるような気もするけれども、くわえて《世界観》ということばがあっているのかどうかはわからないけれども、ただ少なくとも、一句は一句だけではなく、なにかに対してやどこかにおける座標としての一句なんだということはたえず意識しておかなければならない。それが個人個人の川柳観になるのではないか。それはチェスのように、あるいは将棋のように。
有機的に関連しえないような一句は、つくらない。
それがわたしがかってに合評会から感じていたことです。
ちなみにくんじろうさんの引用させたいただいた掲句は、「リュックサック式ランドセル風介護ベッド」というふうに、「リュックサック式」で機能を、「ランドセル風」でノスタルジーを、「介護ベッド」で現実をたたえた機能とノスタルジーと現実が三点パックとしてパッケージングされた句です。
「介護ベッド」が「リュックサック式」としてポータブルに手軽に機能美として商品化され、「ランドセル風」でノスタルジーとしても消費されてゆく、深夜の通販の詰め込みパッケージングのような、しかし「介護ベッド」という現実感が重くどこまでもたがとしてはずれない、浮遊のあしかせとして機能しているところにおもしろさのひとつがあるんじゃないかとおもいます。
こうした重さと軽さの響きあいは〈背景〉をおりなすようにたとえばくんじろうさんの次のような句にも有機的に相互作用していきます。
ガガーリン少佐本日発売す くんじろう
ズッキーニズキズキコンビーフビフビフ 〃
ぼくは短歌を書きはじめた頃は、言語感覚とかセンスとかがとても重要なものに思えたのだけど、十年とか十五年たつと、言語感覚に加えて価値観、世界観というものが、書くときにも詠むときにも、より大きな意味を持ってくる。もちろん言語感覚こそが人を魅了するんだけど、その芯には世界観があって、それで人を打たなければならないと思うんです。世界観というのは、人間性とか哲学というのではなくて、たとえば定型観とか、短歌なら五七五七七に対するスタンスで、人を説得しなければならない。
穂村弘「なかはられいこと川柳の現在」『脱衣場のアリス』
ひとつ思うのは、「投稿ずれ」のもんだいである。
さまざまな媒体の投稿欄を見ていると、投稿の常連さんの存在に気づく。彼らは、みな短歌が上手だけれど、媒体によって文体や修辞を使い分けすぎて、悪く言えば器用貧乏だ。一定の技術を身につけた後も投稿生活をつづけ、選ばれることに慣れてしまうと、どこかで短歌を舐めてしまうのではないか。
投稿は、あくまで入口だと思う。
ある時点で、自分は何を、どのように書きたいのかを見きわめて、書きたくないことを書くのを止める勇気が必要だ。そのためには、連作をつくることだ。
斉藤斎藤「書きたくないことは書かないで」『短歌研究』2012/7
【背景を、詠う】
柳誌『川柳北田辺・51号』(2014年12月)からくんじろうさんの一句です。
今回『川柳カード』の合評会に出させていただいて強く感じたことなんですが、川柳観というのは、きちんとめいめいにじぶんが築いていく川柳は《こうなんだ》という一句一句をまとめあげていく《背景》としての世界観があって、そこから一句一句がつむがれては、またその各自の世界観をねりなおしていくんだなということなのではないかということです。
そこではたぶん一句としても読めるんだけれども、それが連続して世界観になったときに、また世界観のなかで意味をもってくる。
そうした有機的相互作用をかたちづくっていくことが各自の川柳観になるのかなとおもいました。
これは、穂村弘さんがどこかで言及されていた、一首一首で思いついたままにぽんぽん読んでいくのではなく、どこかでじぶんなりの世界観を構築しながらその世界観をつくりあげるように歌を詠んでいかないと歌自体が持続しなくなってしまうということや、斉藤斎藤さんがおっしゃっていたあちこちに投稿をしつづけ入選しつづることにより器用貧乏にならないで、「歌いたくないことは歌わないで」ということばとも関連しているとおもいます。
そうしたプラトンのイデアみたいな、背後の世界、歌がそこからきてかえっていくような世界、それを個人個人でつくっていくこと。
それが《個性》なのだとはいわないのだけれども、またもしかしたらそこに《私性》があるような気もするけれども、くわえて《世界観》ということばがあっているのかどうかはわからないけれども、ただ少なくとも、一句は一句だけではなく、なにかに対してやどこかにおける座標としての一句なんだということはたえず意識しておかなければならない。それが個人個人の川柳観になるのではないか。それはチェスのように、あるいは将棋のように。
有機的に関連しえないような一句は、つくらない。
それがわたしがかってに合評会から感じていたことです。
ちなみにくんじろうさんの引用させたいただいた掲句は、「リュックサック式ランドセル風介護ベッド」というふうに、「リュックサック式」で機能を、「ランドセル風」でノスタルジーを、「介護ベッド」で現実をたたえた機能とノスタルジーと現実が三点パックとしてパッケージングされた句です。
「介護ベッド」が「リュックサック式」としてポータブルに手軽に機能美として商品化され、「ランドセル風」でノスタルジーとしても消費されてゆく、深夜の通販の詰め込みパッケージングのような、しかし「介護ベッド」という現実感が重くどこまでもたがとしてはずれない、浮遊のあしかせとして機能しているところにおもしろさのひとつがあるんじゃないかとおもいます。
こうした重さと軽さの響きあいは〈背景〉をおりなすようにたとえばくんじろうさんの次のような句にも有機的に相互作用していきます。
ガガーリン少佐本日発売す くんじろう
ズッキーニズキズキコンビーフビフビフ 〃
ぼくは短歌を書きはじめた頃は、言語感覚とかセンスとかがとても重要なものに思えたのだけど、十年とか十五年たつと、言語感覚に加えて価値観、世界観というものが、書くときにも詠むときにも、より大きな意味を持ってくる。もちろん言語感覚こそが人を魅了するんだけど、その芯には世界観があって、それで人を打たなければならないと思うんです。世界観というのは、人間性とか哲学というのではなくて、たとえば定型観とか、短歌なら五七五七七に対するスタンスで、人を説得しなければならない。
穂村弘「なかはられいこと川柳の現在」『脱衣場のアリス』
ひとつ思うのは、「投稿ずれ」のもんだいである。
さまざまな媒体の投稿欄を見ていると、投稿の常連さんの存在に気づく。彼らは、みな短歌が上手だけれど、媒体によって文体や修辞を使い分けすぎて、悪く言えば器用貧乏だ。一定の技術を身につけた後も投稿生活をつづけ、選ばれることに慣れてしまうと、どこかで短歌を舐めてしまうのではないか。
投稿は、あくまで入口だと思う。
ある時点で、自分は何を、どのように書きたいのかを見きわめて、書きたくないことを書くのを止める勇気が必要だ。そのためには、連作をつくることだ。
斉藤斎藤「書きたくないことは書かないで」『短歌研究』2012/7
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