【感想】テトリスはいつも上から下へ冬 高崎義邦
- 2014/12/25
- 07:00
テトリスはいつも上から下へ冬 高崎義邦
「まだ鳴きはじめだから下手だね」
「ええ、まだ充分に舌が回りません」
宗助は家へ帰って御米にこの鶯の問答を繰り返して聞かせた。御米は障子の硝子(ガラス)に映る麗(うらら)かな日影をすかして見て、
「本当にありがたいわね。ようやくの事春になって」と云って、晴れ晴れしい眉を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を剪(き)りながら、
「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏(はさみ)を動かしていた。
夏目漱石『門』
【季語としてのテトリス】
季節ってよくめぐりめぐるものとして認識されたりもするとおもうんですが、そうした循環する、またやってくるものとしてある一方で、もうにどとこないもの、不可逆なものとしての季節ってあるとおもうんですよ。
それは季節の問題ではなくて、季節をめぐるわたしたちの身体のありようの問題だとおもうんです。
季節はまたくるかもしれないけれど、この身体でこの季節を感受できるのは〈いま〉しかない。
その意味では、季節とは循環する円環(サークル)ではなく、どこまでも先のある線条的でリニアな一本のラインとしてある。
テトリスっていうゲームはブロックがうえからどんどん落ちてきて積みあがるとゲームオーバーになる。
ラインがそろうと一段消えるんだけれども、だからといってそれで(基本的には)ゲームがクリアーすることはない。
テトリスのゲームのあり方は、どうすればクリアーできるか、ではなく、〈どこ〉までいけるか、〈どこ〉まで生きられるか、です。
そしてそれはほとんどが違うブロックの違う罪上がり方の〈一回性〉としてやってくる。いや、落ちてくる。
そうかんがえるとテトリスっておそろしいゲームなんですよね。アンチ・マリオというか。
リセットしても意味がないんです。クリアーが目的じゃないし、おなじ風景をみることができないので。
でもだからこそ、マリオに季節はないかもしれないけれど、たぶん、テトリスにはリニアな時間軸としての季節が、ある。
高崎さんのテトリスの句の「冬」は、どこかでこのゲームがリニアな時間軸として抱え込まざるをえない〈死〉も内包しているようにおもいます。
ブロックをいくらラインを並べて消しても、それはエントロピーを減らすことにはならない。エントロピーはどんどん増大していく。不可逆には、ならない。
でも、生きるって、時間のなかで生きるって、季節のなかで生きるってそういうことでしょ、ともおもうんです。
そして、17音のエントロピーの増大でさえ、よみおわったあとは、もうよむ以前にはもどることのできない、定型だってテトリスでしょ、と。
そういえば、たまに二階のベランダに干している最中、あれっとしたいっしゅんのせつなに、地上にひるがえりつつ落ちていくおふとんも、テトリスにみえたりすること、ありますよね。ない。いや、ある。
あの家は今生きてます干布団 高崎義邦
「安心するかね」
「ええ安心よ。すっかり片付いちゃったんですもの」
「まだなかなか片付きゃしないよ」
「どうして」
「片付いたのは上部うわべだけじゃないか。だから御前は形式張った女だというんだ」
細君の顔には不審と反抗の色が見えた。
「じゃどうすれば本当に片付くんです」
「世の中に片付くなんてものはほとんどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他(ひと)にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
夏目漱石『道草』
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