【感想】空爆終わる私の四肢がそろわない 山河舞句
- 2014/12/31
- 05:00
空爆終わる私の四肢がそろわない 山河舞句
【小説の身体/定型詩の身体、あるいは長短の彼岸】
川柳にとって〈身体〉の問題っていうのはとても大事だとおもうんですが、なんでじゃあ〈身体〉が575のなかで主題として浮かび上がってくるのかといえば、それは定型という表現形式が関係しているようにもおもうんです。
たとえば、小説で身体を描く際には、描いた身体の強度を最後まで支えなければならない。
長い表現形式にあっては、身体を提出したらきちんと語りとおさなければならない。
さらっと描いてさらっと退場させるわけにはいかない。
そういうやりかたもできるけれど、それでは身体を描いたことにはならない。
じゃあ定型は短いからいいのかというとそういうことでもないとおもうんですよ。
そもそも、定型は、短くも、長くも、ない。
いや、わたしは〈短い〉と安直にかんがえていたんですが、さいきん、〈短い〉っていうのはちがうんじゃないかとおもったのです。
長短の問題ではなく、想像的空間の問題のようにおもうんです。
小説表現っていうのは文を加算していくので、実は想像力をどんどんひろげていくというよりは、喚起される想像力をどんどん修正していく作業になります。
いっぽう、定型はことばが提出されたときにもうそれ以上加算される文はないので、空間を自身で再帰的に錬成していく作業になります。
だから、小説を読んだり、定型詩を読むということは、想像力を豊かにひろげていく、というよりも、実は、小説でいえば想像力を加算されることばに沿って修正していく作業、定型詩でいえば想像力をそれしかないことばに沿って錬成していく作業になるのではないかとおもうのです。
そのとき小説の身体観っていうのは、加算されることばによる想像力の修正(変換)ですから、むしろ身体は〈運動イメージ〉として、どんなふうに身体が動き、変成していくかというものとして成形されていく。なにかの目的にむかって、からだがうごく。
でも、定型詩の身体観は、定型のことばだけでなんどもおなじことばにたちかえりながら身体を錬成する(ねっていく)ので、《身体のありようそのもの》を問題にしはじめるのではないかとおもうのです。〈運動イメージ〉というよりは、身体が、〈その〉固有の身体がもっている、〈時間イメージ〉です。なにかの目的にむけて運動しようとする身体ではなく、そうするしかない身体のことです。そうするしかなかった身体、目的をもてなかった〈からだ〉です。どこにもいかない、からだ。そこにあるのは、〈時間〉です。
だから舞句さんのうえの句の〈身体〉とはどこにもいかない、あらかじめ目標をもたなかった身体です。
しかし「空爆が終わ」ったあとに「そろわない」身体として〈時間〉をもっています。「そろわない」身体としてのえいえんにことばのなかを循環しつづける〈からだ〉と〈じかん〉です。
定型詩の身体観とは、こうした時間をめぐる身体なのではないかとおもうのです。それは、時間イメージだと。
生まれたてですとくるんだものを出す 佐藤みさ子
(『川柳杜人』2014冬)
【小説の身体/定型詩の身体、あるいは長短の彼岸】
川柳にとって〈身体〉の問題っていうのはとても大事だとおもうんですが、なんでじゃあ〈身体〉が575のなかで主題として浮かび上がってくるのかといえば、それは定型という表現形式が関係しているようにもおもうんです。
たとえば、小説で身体を描く際には、描いた身体の強度を最後まで支えなければならない。
長い表現形式にあっては、身体を提出したらきちんと語りとおさなければならない。
さらっと描いてさらっと退場させるわけにはいかない。
そういうやりかたもできるけれど、それでは身体を描いたことにはならない。
じゃあ定型は短いからいいのかというとそういうことでもないとおもうんですよ。
そもそも、定型は、短くも、長くも、ない。
いや、わたしは〈短い〉と安直にかんがえていたんですが、さいきん、〈短い〉っていうのはちがうんじゃないかとおもったのです。
長短の問題ではなく、想像的空間の問題のようにおもうんです。
小説表現っていうのは文を加算していくので、実は想像力をどんどんひろげていくというよりは、喚起される想像力をどんどん修正していく作業になります。
いっぽう、定型はことばが提出されたときにもうそれ以上加算される文はないので、空間を自身で再帰的に錬成していく作業になります。
だから、小説を読んだり、定型詩を読むということは、想像力を豊かにひろげていく、というよりも、実は、小説でいえば想像力を加算されることばに沿って修正していく作業、定型詩でいえば想像力をそれしかないことばに沿って錬成していく作業になるのではないかとおもうのです。
そのとき小説の身体観っていうのは、加算されることばによる想像力の修正(変換)ですから、むしろ身体は〈運動イメージ〉として、どんなふうに身体が動き、変成していくかというものとして成形されていく。なにかの目的にむかって、からだがうごく。
でも、定型詩の身体観は、定型のことばだけでなんどもおなじことばにたちかえりながら身体を錬成する(ねっていく)ので、《身体のありようそのもの》を問題にしはじめるのではないかとおもうのです。〈運動イメージ〉というよりは、身体が、〈その〉固有の身体がもっている、〈時間イメージ〉です。なにかの目的にむけて運動しようとする身体ではなく、そうするしかない身体のことです。そうするしかなかった身体、目的をもてなかった〈からだ〉です。どこにもいかない、からだ。そこにあるのは、〈時間〉です。
だから舞句さんのうえの句の〈身体〉とはどこにもいかない、あらかじめ目標をもたなかった身体です。
しかし「空爆が終わ」ったあとに「そろわない」身体として〈時間〉をもっています。「そろわない」身体としてのえいえんにことばのなかを循環しつづける〈からだ〉と〈じかん〉です。
定型詩の身体観とは、こうした時間をめぐる身体なのではないかとおもうのです。それは、時間イメージだと。
生まれたてですとくるんだものを出す 佐藤みさ子
(『川柳杜人』2014冬)
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