【感想】ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり 穂村弘
- 2015/01/02
- 00:01
ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり 穂村弘
【ドラえもんの修辞学】
〈ドラえもん〉ってのび太の隣にいつも存在している巨大なフィクションなんじゃないかとおもうことがあるんです。
なんていうんだろう、のび太は現実原則に四苦八苦していますよね。たとえばテストの点数っていうのは観念でどうにもならないから現実原則です。いいかんじの0点とか、さわやかな0点とかあんまりないはずです。
もしくはスネ夫との経済格差もやはり数字の問題になってくるし、ジャイアンとの力の格差があったとしたらそれは殴られることの体力・握力・筋力という数値の問題になってくる。
でもそういった現時原則を緩和してくれるのが、〈ドラえもん〉という巨大なフィクションの体系です。
勉強机のひきだしからドラえもんがでてきたのが象徴的だとおもうんです。
勉強机のひきだしってたぶん、いちばん自分が身近においておきたいもの、よく使うもの、でも隠しておきたいもの、というわたしのなかのいちばん親密でいて、しかしそれを他者と共有しようとはおもわない、わたしが共有できるような社会的に言語化しえないものがひきだしのなかにしまわれるんじゃないかとおもうんです。
たとえばラブレターってことばなんだけれども、でもそれは「わたしにとってこういうものなんですよ」って社会や他者にたいしてなかなか共有できることばにできないもの。
だからそれはある意味、わたしにとっても疎隔されてる疎遠なものだとおもうんですよ。ことばにできないんだから。
そうした引きだしって親密な疎遠がしまわれる場所なんじゃないか。
そしてそこからドラえもんはでてくる。
わたしにとっていちばん親密ではあるんだけれども、でもわたしが言語化できないものとしてそれはわたしから去っていくかもしれない。
そういう手に入らない、しかしわたしにとって切実なモンスター級のフィクションが〈ドラえもん〉なのではないかとおもうんです。もしくは〈ドラえもん的なるもの〉。
で、上の穂村さんの歌はふしぎな歌なんですが、「どらえもん」と表記されている。
だから、〈ドラえもん〉というフィクショナルなものが〈ことば〉を経由して、さらに虚構化されている。それがこの歌の「どらえもん」だとおもうんですよ。
ここで、〈ドラえもん〉はことばに意識的な「どらえもん」になっている。でもそれはことばによってさらに虚構を加速させるものでもある。もはやそれは〈ドラえもん〉という現実原則を緩和させるフィクションの装置ですらなくて、ただ純粋に〈言語存在〉としての虚構になっている。
でも穂村さんがシンポジウムでいわれていたことですが、「文体にこそ、虚構がやどる」ということでもあるとおもうんです。
穂村さんがこの歌でひきうけたドラえもんは、そうした言語存在的な虚構としての〈どらえもん〉だったのではないか。
そもそも短歌とは、そうした〈文体〉、ことばの変圧によって、虚構の濃淡を変成していくものである。だから「春の夜の嘘つき」=「どらえもんのはじまり」はまず〈ことば〉によって、ことばの偏差によってはじまる。
この歌の頭の「ハーブティー」も大事だとおもっていて、「ハーブティー」って言語的なお茶ですよね。お茶ってもちろん内実も備わっていいるけれども、ダンデライオンティーとか、ラズベリーリーフティーとか、カモミールペパーミントティーとか、ことばによってお茶の色合いを分別している。
でも言語によって分別する一方で、お茶っていうのは〈香り〉や〈味覚〉〈温度〉として身体に強くうったえかけるものでもあるので、記号の差異だけにとどまらないで、記号が身体に働きかけてくるものでもある。
文体としてのフィクションの濃淡においても、短歌においては「ハーブティーにハーブ煮えつつ」というような、言語によってもどうともしがたい〈現実〉もある。どのように虚構化しても付与される〈現実〉。
〈ドラえもん〉というフィクショナルな物語に、「ハーブティー」や「ハーブ」が「煮え」る〈現実〉がこの歌では接続されている(無印良品のカフェなんかでハーブどっさりのハーブティーを飲んでみてください。かなり、ビリビリきます。ことばが使えなくなるくらいに)。
たとえハーブティーが嘘だとしても、その嘘を読み手が感受したときに、受け取らざるをえない、想起せざるをえない、味・香り・熱さがある。
だからこの歌っていうのはまとめてみると、ことばを経由してどれだけ虚構化しようとしてもしきれない〈現実〉が残存する。でもそれらもひっくるめて〈嘘〉としての〈どらえもん〉なんじゃないかという歌のようにおもうのです。
だから、虚構としてのドラえもんを、俵万智さんの短歌にみられたような〈すぐ手にいれられるもの〉と対置する〈愛〉のレトリックのように、(たぶん)現実に絶対的に手にはいらない〈あなた〉と対置すると、劇的な〈手にいれがたさ〉があらわれるようにおもうのです。
レトリックとしてのドラえもん、として。
ポケットもタイムマシンも興味ない ドラえもんよりあなたが欲しい 加藤千恵
焼き肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き 俵万智
【ドラえもんの修辞学】
〈ドラえもん〉ってのび太の隣にいつも存在している巨大なフィクションなんじゃないかとおもうことがあるんです。
なんていうんだろう、のび太は現実原則に四苦八苦していますよね。たとえばテストの点数っていうのは観念でどうにもならないから現実原則です。いいかんじの0点とか、さわやかな0点とかあんまりないはずです。
もしくはスネ夫との経済格差もやはり数字の問題になってくるし、ジャイアンとの力の格差があったとしたらそれは殴られることの体力・握力・筋力という数値の問題になってくる。
でもそういった現時原則を緩和してくれるのが、〈ドラえもん〉という巨大なフィクションの体系です。
勉強机のひきだしからドラえもんがでてきたのが象徴的だとおもうんです。
勉強机のひきだしってたぶん、いちばん自分が身近においておきたいもの、よく使うもの、でも隠しておきたいもの、というわたしのなかのいちばん親密でいて、しかしそれを他者と共有しようとはおもわない、わたしが共有できるような社会的に言語化しえないものがひきだしのなかにしまわれるんじゃないかとおもうんです。
たとえばラブレターってことばなんだけれども、でもそれは「わたしにとってこういうものなんですよ」って社会や他者にたいしてなかなか共有できることばにできないもの。
だからそれはある意味、わたしにとっても疎隔されてる疎遠なものだとおもうんですよ。ことばにできないんだから。
そうした引きだしって親密な疎遠がしまわれる場所なんじゃないか。
そしてそこからドラえもんはでてくる。
わたしにとっていちばん親密ではあるんだけれども、でもわたしが言語化できないものとしてそれはわたしから去っていくかもしれない。
そういう手に入らない、しかしわたしにとって切実なモンスター級のフィクションが〈ドラえもん〉なのではないかとおもうんです。もしくは〈ドラえもん的なるもの〉。
で、上の穂村さんの歌はふしぎな歌なんですが、「どらえもん」と表記されている。
だから、〈ドラえもん〉というフィクショナルなものが〈ことば〉を経由して、さらに虚構化されている。それがこの歌の「どらえもん」だとおもうんですよ。
ここで、〈ドラえもん〉はことばに意識的な「どらえもん」になっている。でもそれはことばによってさらに虚構を加速させるものでもある。もはやそれは〈ドラえもん〉という現実原則を緩和させるフィクションの装置ですらなくて、ただ純粋に〈言語存在〉としての虚構になっている。
でも穂村さんがシンポジウムでいわれていたことですが、「文体にこそ、虚構がやどる」ということでもあるとおもうんです。
穂村さんがこの歌でひきうけたドラえもんは、そうした言語存在的な虚構としての〈どらえもん〉だったのではないか。
そもそも短歌とは、そうした〈文体〉、ことばの変圧によって、虚構の濃淡を変成していくものである。だから「春の夜の嘘つき」=「どらえもんのはじまり」はまず〈ことば〉によって、ことばの偏差によってはじまる。
この歌の頭の「ハーブティー」も大事だとおもっていて、「ハーブティー」って言語的なお茶ですよね。お茶ってもちろん内実も備わっていいるけれども、ダンデライオンティーとか、ラズベリーリーフティーとか、カモミールペパーミントティーとか、ことばによってお茶の色合いを分別している。
でも言語によって分別する一方で、お茶っていうのは〈香り〉や〈味覚〉〈温度〉として身体に強くうったえかけるものでもあるので、記号の差異だけにとどまらないで、記号が身体に働きかけてくるものでもある。
文体としてのフィクションの濃淡においても、短歌においては「ハーブティーにハーブ煮えつつ」というような、言語によってもどうともしがたい〈現実〉もある。どのように虚構化しても付与される〈現実〉。
〈ドラえもん〉というフィクショナルな物語に、「ハーブティー」や「ハーブ」が「煮え」る〈現実〉がこの歌では接続されている(無印良品のカフェなんかでハーブどっさりのハーブティーを飲んでみてください。かなり、ビリビリきます。ことばが使えなくなるくらいに)。
たとえハーブティーが嘘だとしても、その嘘を読み手が感受したときに、受け取らざるをえない、想起せざるをえない、味・香り・熱さがある。
だからこの歌っていうのはまとめてみると、ことばを経由してどれだけ虚構化しようとしてもしきれない〈現実〉が残存する。でもそれらもひっくるめて〈嘘〉としての〈どらえもん〉なんじゃないかという歌のようにおもうのです。
だから、虚構としてのドラえもんを、俵万智さんの短歌にみられたような〈すぐ手にいれられるもの〉と対置する〈愛〉のレトリックのように、(たぶん)現実に絶対的に手にはいらない〈あなた〉と対置すると、劇的な〈手にいれがたさ〉があらわれるようにおもうのです。
レトリックとしてのドラえもん、として。
ポケットもタイムマシンも興味ない ドラえもんよりあなたが欲しい 加藤千恵
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