【感想】〈だれも終らせ方をしらない〉毎日歌壇、2015年1月5日
- 2015/01/05
- 06:00
加藤治郎さんにこんな歌があります。
だれも終らせ方をしらない。てのひらは白い果肉でちぎれるばかり 加藤治郎
加藤さんが選をされている毎日歌壇は、その週その週でゆるやかな連になっているんじゃないかということを以前書いたんですが、きょうの毎日歌壇の連としてのタイトルをあえてかかげれば、この加藤さんの歌の「だれも終らせ方をしらない」になるのではないかとちょっとおもったのです。
それは、ふいに〈おわり〉が訪れる連であり、〈おわり〉をめぐる連であり、〈おわり〉へ問いかける連であり、〈おわり〉と〈私性〉が漸近をくりかえしつづける連であり、言うなれば「だれも終らせ方をしらない」連です。
白昼のダイヤを乱すそのために生きてきたのか違うだろ死ぬな 宮代康志
繰るごとに光が栞になるような気がして前のページにもどる 長井幸広
焼き肉の最後に食べるパフェだけがすべてなのだと君は知らない こころ
思い出も指一本で消せたのになんで胸から君は消えない 猫田馨
少女からもらった白い煎餅の裏面に桜海老の孤独死 木下龍也
ひとりきり夜を歩けばオレのいるここが世界の最果てとなる 工藤吉生
(毎日新聞・毎日歌壇2015年1月5日・加藤治郎 選)
〈おわり〉をめぐる短歌をきょうの毎日歌壇から任意で引いてみました。いちばん上の宮代康志さんの歌が今回の特選歌です。
「生きてきたのか違うだろ死ぬな」、「前のページにもどる」、「焼き肉の最後に食べるパフェ」、「君は消えない」、「裏面に桜海老の孤独死」。
〈おわり〉を詠みつつも、そこには〈おわり〉への屈託やかすかな消せない痕跡が、のこる。
〈だれも終らせ方をしらない〉はじめての〈おわり〉がここにはあるようにおもいます。
そしてこの〈だれも終らせ方をしらない〉連のさいごに「ここ」を「世界の最果て」と感じつつも、でもその「ここ」を「世界」と分断はされていない、連続された端=「果て」として〈わたし〉がひきうける工藤さんの歌がおかれているのが興味深いとおもいます。
〈おわり〉は世界の〈そこかしこ〉から連続している〈ここ〉をひきうけることから〈はじまる〉。
そしてそれが毎日歌壇の一年の〈はじまり〉にあったことも意味があるこのようにおもうのです。どれだけわたしたちが生きていくなかで〈おわり〉を手渡されても、それを言語化=短歌化していく過程においてそれはいつでも生きることの問いかけとしての〈はじまり〉になる。
おわりとしてのはじまりは、さよならの絶対零度をさぐる試みから。
さよならの絶対零度をさぐりつつきみからもらう火薬チロルチョコ 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2015年1月5日・加藤治郎 選)
だれも終らせ方をしらない。てのひらは白い果肉でちぎれるばかり 加藤治郎
加藤さんが選をされている毎日歌壇は、その週その週でゆるやかな連になっているんじゃないかということを以前書いたんですが、きょうの毎日歌壇の連としてのタイトルをあえてかかげれば、この加藤さんの歌の「だれも終らせ方をしらない」になるのではないかとちょっとおもったのです。
それは、ふいに〈おわり〉が訪れる連であり、〈おわり〉をめぐる連であり、〈おわり〉へ問いかける連であり、〈おわり〉と〈私性〉が漸近をくりかえしつづける連であり、言うなれば「だれも終らせ方をしらない」連です。
白昼のダイヤを乱すそのために生きてきたのか違うだろ死ぬな 宮代康志
繰るごとに光が栞になるような気がして前のページにもどる 長井幸広
焼き肉の最後に食べるパフェだけがすべてなのだと君は知らない こころ
思い出も指一本で消せたのになんで胸から君は消えない 猫田馨
少女からもらった白い煎餅の裏面に桜海老の孤独死 木下龍也
ひとりきり夜を歩けばオレのいるここが世界の最果てとなる 工藤吉生
(毎日新聞・毎日歌壇2015年1月5日・加藤治郎 選)
〈おわり〉をめぐる短歌をきょうの毎日歌壇から任意で引いてみました。いちばん上の宮代康志さんの歌が今回の特選歌です。
「生きてきたのか違うだろ死ぬな」、「前のページにもどる」、「焼き肉の最後に食べるパフェ」、「君は消えない」、「裏面に桜海老の孤独死」。
〈おわり〉を詠みつつも、そこには〈おわり〉への屈託やかすかな消せない痕跡が、のこる。
〈だれも終らせ方をしらない〉はじめての〈おわり〉がここにはあるようにおもいます。
そしてこの〈だれも終らせ方をしらない〉連のさいごに「ここ」を「世界の最果て」と感じつつも、でもその「ここ」を「世界」と分断はされていない、連続された端=「果て」として〈わたし〉がひきうける工藤さんの歌がおかれているのが興味深いとおもいます。
〈おわり〉は世界の〈そこかしこ〉から連続している〈ここ〉をひきうけることから〈はじまる〉。
そしてそれが毎日歌壇の一年の〈はじまり〉にあったことも意味があるこのようにおもうのです。どれだけわたしたちが生きていくなかで〈おわり〉を手渡されても、それを言語化=短歌化していく過程においてそれはいつでも生きることの問いかけとしての〈はじまり〉になる。
おわりとしてのはじまりは、さよならの絶対零度をさぐる試みから。
さよならの絶対零度をさぐりつつきみからもらう火薬チロルチョコ 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2015年1月5日・加藤治郎 選)
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