【感想】電車短歌を恣意的にまとめてみました-短歌出発進行!-
- 2014/05/14
- 22:05
電車って燃えつきながら走るから見送るだけで今日はいいんだ 山崎聡子
山崎聡子さんの電車の短歌をみているうちに、電車と短歌の関係について興味がわいてきて、恣意的にまとめてみることにしました。
ちなみにこれは汽車にまつわる主題ですが、たとえば明治から大正にかけて近代文学には、車内の空間がドラマをひきおこす小説が描かれています。夏目漱石『三四郎』、志賀直哉「網走まで」、芥川龍之介「蜜柑」。これらに共通しているのは、汽車の車内という空間において文脈ぬきの他者にだしぬけに語り手がであうこと、そしてそのであった文脈ぬきの他者にたいしてジェンダーバイアスのかかった〈想像力〉によって他者を意味付けていくことです。その〈意味付け〉そのものが小説になるという事態が生まれてきたのがおそらく明治から大正にかけてです(明治の高速交通網としての鉄道敷設の状況については小川明子さんの概括によれば、「1889年には東海道本線が完成し、船で三、四日かかった新橋-神戸間を22時間で結んだ。1890年前後には、各地で株式会社による鉄道敷設が相次ぎ、ほぼ10年後には全国主要鉄道網を完成した」。小川明子「メディアと地方」『都市の暮らしの民俗学① 都市とふるさと』)。
時代はくだりますが、そうした車内の空間が〈他者〉なるものとであう空間になる、異空間になるといったような短歌が電車短歌にはよくみられます。ふだんは目にしているものの・電車内でみた瞬間それが〈他者〉的なものになる瞬間をうたった短歌です。
テーマは、電車内空間としての他者です。
秋分の日の電車にて床にさす光もともに運ばれて行く 佐藤佐太郎
夜おそく電車のなかに兵ひとりしづかに居るは何かさびしき 斎藤茂吉
赤ちゃんの靴と輪投げと月光の散らばる路面電車にひとり 穂村弘
これら三首にあるのはふだん眼にしているだろう「光」「兵」「赤ちゃんの靴と輪投げと月光」が電車内空間においては語るべき事象そのものになる、そして語った瞬間、日常にあるそれらとはズレていくという事態です。
電車とは日常のなんでもないものが〈事件〉になるような舞台装置だといえるのではないでしょうか。
ところがさいきんの電車短歌ではこの様相がかわってきているようにおもいます。
電車内空間の他者性というよりは、電車そのものが他者化していくのです。みてみます。
電車って燃えつきながら走るから見送るだけで今日はいいんだ 山崎聡子
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって 中澤系
あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな 永井祐
ここでうたわれているのは、電車そのものの異質性だとおもいます。「燃えつきながら走る見送るだけ」の電車、「理解できない人は下が」るしかない理解/非理解に対して有無をいわせない電車、「ぶつかればはね飛ばされたりする」電車。どれも容赦ない、わたしたちが関わる以前の電車、意味/非意味にかかわらず、というよりも意味付けをはねかえしていくような非親和的な電車です。しかもここにあるのは同時におそらく生/死の境界としての電車です。
そのことをかんがえるとたとえば斉藤斎藤さんの電車短歌などもこれらと共鳴しあっているようにもおもいます。
死ぬときはみんなひとりとみんな言う私は電車で渋谷に行きます 斉藤斎藤
斉藤斎藤さんの短歌においても、電車という装置が「死ぬときはみんなひとり」という死生観と、にもかかわらず漱石『草枕』的に詰め込まれて「渋谷」に運ばれていく「電車」に乗る「みんな(の死)」としての「私」
の死生観と対比するかたちでうたわれています。
電車そのものが非親和化され短歌としてあらわされるとき、わたしたちの生死の境界線が問われなおされる、といった事態が、さいきんの電車短歌にはみられるようにおもいます。
またほかに野口あや子さんの電車短歌のように、電車と視線を問題系として〈わたしをめぐる行為〉が変質していくことをうたった短歌(これは、電車内空間が他者化する電車短歌の系譜かもしれません)もありますし、宇都宮敦さんの電車短歌のような「電車」を直喩としてうたう短歌(もしかしたらこの短歌も電車という装置を媒介にすることにで「惜しみないおんなともだち」を他者化していくような、電車そのものが他者化している電車短歌の系譜にかすかにつらなっているのかもしれません)もあります。
空いている電車ですこししてみたっけ あなた みられているよこんなに 野口あや子
昼すぎの電車のように惜しみないおんなともだちとごはんを食べる 宇都宮敦
恣意的に感想を書き連ねてみましたが、このように電車短歌というのは、語り手の認識の問題、どう電車とかかわっていくのか、またそのかかわりかたによってなにがどう言語化されなおしていくのか、とわれていくのかといった問題系とからんでいるようにおもいます。
ここまでお読みくださりありがとうございました。
終点です。
山崎聡子さんの電車の短歌をみているうちに、電車と短歌の関係について興味がわいてきて、恣意的にまとめてみることにしました。
ちなみにこれは汽車にまつわる主題ですが、たとえば明治から大正にかけて近代文学には、車内の空間がドラマをひきおこす小説が描かれています。夏目漱石『三四郎』、志賀直哉「網走まで」、芥川龍之介「蜜柑」。これらに共通しているのは、汽車の車内という空間において文脈ぬきの他者にだしぬけに語り手がであうこと、そしてそのであった文脈ぬきの他者にたいしてジェンダーバイアスのかかった〈想像力〉によって他者を意味付けていくことです。その〈意味付け〉そのものが小説になるという事態が生まれてきたのがおそらく明治から大正にかけてです(明治の高速交通網としての鉄道敷設の状況については小川明子さんの概括によれば、「1889年には東海道本線が完成し、船で三、四日かかった新橋-神戸間を22時間で結んだ。1890年前後には、各地で株式会社による鉄道敷設が相次ぎ、ほぼ10年後には全国主要鉄道網を完成した」。小川明子「メディアと地方」『都市の暮らしの民俗学① 都市とふるさと』)。
時代はくだりますが、そうした車内の空間が〈他者〉なるものとであう空間になる、異空間になるといったような短歌が電車短歌にはよくみられます。ふだんは目にしているものの・電車内でみた瞬間それが〈他者〉的なものになる瞬間をうたった短歌です。
テーマは、電車内空間としての他者です。
秋分の日の電車にて床にさす光もともに運ばれて行く 佐藤佐太郎
夜おそく電車のなかに兵ひとりしづかに居るは何かさびしき 斎藤茂吉
赤ちゃんの靴と輪投げと月光の散らばる路面電車にひとり 穂村弘
これら三首にあるのはふだん眼にしているだろう「光」「兵」「赤ちゃんの靴と輪投げと月光」が電車内空間においては語るべき事象そのものになる、そして語った瞬間、日常にあるそれらとはズレていくという事態です。
電車とは日常のなんでもないものが〈事件〉になるような舞台装置だといえるのではないでしょうか。
ところがさいきんの電車短歌ではこの様相がかわってきているようにおもいます。
電車内空間の他者性というよりは、電車そのものが他者化していくのです。みてみます。
電車って燃えつきながら走るから見送るだけで今日はいいんだ 山崎聡子
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって 中澤系
あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな 永井祐
ここでうたわれているのは、電車そのものの異質性だとおもいます。「燃えつきながら走る見送るだけ」の電車、「理解できない人は下が」るしかない理解/非理解に対して有無をいわせない電車、「ぶつかればはね飛ばされたりする」電車。どれも容赦ない、わたしたちが関わる以前の電車、意味/非意味にかかわらず、というよりも意味付けをはねかえしていくような非親和的な電車です。しかもここにあるのは同時におそらく生/死の境界としての電車です。
そのことをかんがえるとたとえば斉藤斎藤さんの電車短歌などもこれらと共鳴しあっているようにもおもいます。
死ぬときはみんなひとりとみんな言う私は電車で渋谷に行きます 斉藤斎藤
斉藤斎藤さんの短歌においても、電車という装置が「死ぬときはみんなひとり」という死生観と、にもかかわらず漱石『草枕』的に詰め込まれて「渋谷」に運ばれていく「電車」に乗る「みんな(の死)」としての「私」
の死生観と対比するかたちでうたわれています。
電車そのものが非親和化され短歌としてあらわされるとき、わたしたちの生死の境界線が問われなおされる、といった事態が、さいきんの電車短歌にはみられるようにおもいます。
またほかに野口あや子さんの電車短歌のように、電車と視線を問題系として〈わたしをめぐる行為〉が変質していくことをうたった短歌(これは、電車内空間が他者化する電車短歌の系譜かもしれません)もありますし、宇都宮敦さんの電車短歌のような「電車」を直喩としてうたう短歌(もしかしたらこの短歌も電車という装置を媒介にすることにで「惜しみないおんなともだち」を他者化していくような、電車そのものが他者化している電車短歌の系譜にかすかにつらなっているのかもしれません)もあります。
空いている電車ですこししてみたっけ あなた みられているよこんなに 野口あや子
昼すぎの電車のように惜しみないおんなともだちとごはんを食べる 宇都宮敦
恣意的に感想を書き連ねてみましたが、このように電車短歌というのは、語り手の認識の問題、どう電車とかかわっていくのか、またそのかかわりかたによってなにがどう言語化されなおしていくのか、とわれていくのかといった問題系とからんでいるようにおもいます。
ここまでお読みくださりありがとうございました。
終点です。
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