古池にダイヴするダース・ベイダー卿のあとがき
- 2015/01/08
- 06:30
おーいお茶とダース・ベイダー卿の思いがけない節合
【柿を食うダース・ベイダー卿の背後でがんがん鳴る鐘】
こないだある方とジャンルについての話をさせていただいていて、ジャンルってなんだろう、という話になったのですが、そのときおもったのが、ジャンルっていうのは、《ジャンルとはこのようなものである》と定義や記述することの可能性としてある、というよりもむしろ、そのジャンルのなかでならはじめて飛躍して連結することのできた、結びつくことのできた《結びつき》の可能性としてあるんじゃないかなっておもったんです。
たとえば何度も引用させていただいている喪字男さんの句、
長き夜のダース・ベイダー卿の息 喪字男
これは、〈音〉の句です。そしてこの句は、〈俳句〉というジャンルにあります。
そのとき、この「ダース・ベイダー卿の息」という音は、〈俳句〉というジャンルのなかで、古池にダイヴした蛙の〈音〉や、柿を食べた瞬間鐘が鳴る超能力的エスパーな〈音〉と、通底しあいつつも差異化する可能性をもっている。
ジャンルのなかでそれまでなかったひとつのある〈音〉がうまれたときに、先行している音と結び合いつつも、それら先行している音の響きをもういちどその音が音によってたしかめる。
ジャンルというのはそのような結びつきの可能性としてあるのではないかとおもうのです。いつもジャンルの内部では、おもわぬ結びつきや〈命がけの跳躍〉による結びつきが生まれる。
もちろん、ジャンルを、記述や定義しつづけようとする実践対象としてとらえてもいいのだろうけれども、おそらくジャンルは記述された瞬間、それを超えようとするようなフィールドとしてある。
そしてそうしたジャンル内の結びつきは潜在的にいつも他ジャンルへの結びつきをもかかえこんでいる。
そのときはじめて、ジャンルとジャンルの衝突や葛藤によって、ジャンルを再帰的にみなおす視点がうまれるのではないかともおもうのです。たとえば、〈自分探し〉をとつぜんしはじめてじぶんとはなにかをかんがえて結局自己に埋没して自分がみえなくなってしまうよりもむしろ、だれかとけんかしたりとてもなかよくしたりしたときに事後的に・おもいがけないかたちで〈じぶん〉がわかってしまうように。
たとえば山田露結さんにこんな句があります。
落ちてくる手袋のまだ空中に 山田露結
(『彼方からの手紙9』)
わたしがこの句をみたときにふっとおもいだしたのは、『不思議の国のアリス』の落ちてゆくアリスです。
そのとき、俳句というジャンルは(わたしのなかだけですが)小説というジャンルに接近している。
でも、だからといって同一ではなくて、それぞれのとけあえない磁場をもっている。ゆるやかなつながりがあるようにも思いつつも、でも小説として/俳句として、その形式から響かせあいつつも読んでみたくなる。じゃあそのときとけあえない磁場ってなんだろう、とさぐるときに、ジャンルがほのかにみえてくるかもしれない。
だから、ジャンルってなんだろうっておもったときに、あえて一言でいいあらわすならば、《きたみたい》じゃないかとおもうのです。《わあこんなところまできたみたい》。きたみたい、という発話には、おもいがけない位相の編入と飛躍があります。
そうおもうと、げんきがでてくる。
糸曳いて蜜柑山まできたみたい 宮本佳世乃
(『彼方からの手紙9』)
川柳についての様々な言説が交錯し、それぞれの言説が相対化されることは、別段わるいことではない。実作者が作品を書いているときは、自らが川柳を書くための根拠となるようなある種の確信が必要であるが、川柳とは何かという問題に対しては、それぞれの言説にどれほどの根拠があるのかが常に問われなければならない。すべてを相対化する川柳精神からすれば絶対的な川柳観など自己矛盾でしかない。「川柳の幅」という言い方がされることがあるが、川柳形式がカバーできる領域はできるだけ広い方が居心地よい。(……)川柳形式によってまだ表現されていない新たな可能性があると考えると元気がでてくる。
小池正博「交錯する視線の中で川柳は相対化される」『蕩尽の文芸ー川柳と連句』まろうど社、2009年、p.275-6
【柿を食うダース・ベイダー卿の背後でがんがん鳴る鐘】
こないだある方とジャンルについての話をさせていただいていて、ジャンルってなんだろう、という話になったのですが、そのときおもったのが、ジャンルっていうのは、《ジャンルとはこのようなものである》と定義や記述することの可能性としてある、というよりもむしろ、そのジャンルのなかでならはじめて飛躍して連結することのできた、結びつくことのできた《結びつき》の可能性としてあるんじゃないかなっておもったんです。
たとえば何度も引用させていただいている喪字男さんの句、
長き夜のダース・ベイダー卿の息 喪字男
これは、〈音〉の句です。そしてこの句は、〈俳句〉というジャンルにあります。
そのとき、この「ダース・ベイダー卿の息」という音は、〈俳句〉というジャンルのなかで、古池にダイヴした蛙の〈音〉や、柿を食べた瞬間鐘が鳴る超能力的エスパーな〈音〉と、通底しあいつつも差異化する可能性をもっている。
ジャンルのなかでそれまでなかったひとつのある〈音〉がうまれたときに、先行している音と結び合いつつも、それら先行している音の響きをもういちどその音が音によってたしかめる。
ジャンルというのはそのような結びつきの可能性としてあるのではないかとおもうのです。いつもジャンルの内部では、おもわぬ結びつきや〈命がけの跳躍〉による結びつきが生まれる。
もちろん、ジャンルを、記述や定義しつづけようとする実践対象としてとらえてもいいのだろうけれども、おそらくジャンルは記述された瞬間、それを超えようとするようなフィールドとしてある。
そしてそうしたジャンル内の結びつきは潜在的にいつも他ジャンルへの結びつきをもかかえこんでいる。
そのときはじめて、ジャンルとジャンルの衝突や葛藤によって、ジャンルを再帰的にみなおす視点がうまれるのではないかともおもうのです。たとえば、〈自分探し〉をとつぜんしはじめてじぶんとはなにかをかんがえて結局自己に埋没して自分がみえなくなってしまうよりもむしろ、だれかとけんかしたりとてもなかよくしたりしたときに事後的に・おもいがけないかたちで〈じぶん〉がわかってしまうように。
たとえば山田露結さんにこんな句があります。
落ちてくる手袋のまだ空中に 山田露結
(『彼方からの手紙9』)
わたしがこの句をみたときにふっとおもいだしたのは、『不思議の国のアリス』の落ちてゆくアリスです。
そのとき、俳句というジャンルは(わたしのなかだけですが)小説というジャンルに接近している。
でも、だからといって同一ではなくて、それぞれのとけあえない磁場をもっている。ゆるやかなつながりがあるようにも思いつつも、でも小説として/俳句として、その形式から響かせあいつつも読んでみたくなる。じゃあそのときとけあえない磁場ってなんだろう、とさぐるときに、ジャンルがほのかにみえてくるかもしれない。
だから、ジャンルってなんだろうっておもったときに、あえて一言でいいあらわすならば、《きたみたい》じゃないかとおもうのです。《わあこんなところまできたみたい》。きたみたい、という発話には、おもいがけない位相の編入と飛躍があります。
そうおもうと、げんきがでてくる。
糸曳いて蜜柑山まできたみたい 宮本佳世乃
(『彼方からの手紙9』)
川柳についての様々な言説が交錯し、それぞれの言説が相対化されることは、別段わるいことではない。実作者が作品を書いているときは、自らが川柳を書くための根拠となるようなある種の確信が必要であるが、川柳とは何かという問題に対しては、それぞれの言説にどれほどの根拠があるのかが常に問われなければならない。すべてを相対化する川柳精神からすれば絶対的な川柳観など自己矛盾でしかない。「川柳の幅」という言い方がされることがあるが、川柳形式がカバーできる領域はできるだけ広い方が居心地よい。(……)川柳形式によってまだ表現されていない新たな可能性があると考えると元気がでてくる。
小池正博「交錯する視線の中で川柳は相対化される」『蕩尽の文芸ー川柳と連句』まろうど社、2009年、p.275-6
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