【短歌】働けど…(毎日新聞・毎日歌壇2015年1月12日・加藤治郎 選・特選)
- 2015/01/12
- 08:32
働けど働けど別に手も見ないパンのレーズンじっとみつめる 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2015年1月12日・加藤治郎 選・特選)
本日の毎日歌壇にて、加藤治郎さんに特選に選んでいただき、次の歌評もいただきました。
加藤さん、ありがとうございました!
【評】石川啄木の「ぢつと手を見る」のパロディーである。レーズンはさえないが、現実感をうまく捉えている。
*
【啄木の手、わたしの手、かれの手、かのじょの手、かれらの手】
はたらけど
はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり
ぢつと手を見る
石川啄木
ときどき、レーズンパンを食べながら、啄木にとっての〈手〉のことをかんがえます。
けっして、〈手を見る〉というじぶんからじぶんへの再帰的な手でおわることのなかった啄木の手。
ひいては、他者とかかわらざるをえないわたしたちの手。レーズンパンをひきちぎりつつ。
啄木の『ローマ字日記』において、じぶんで「ぢつと」みつめることのできる〈手〉の対極にあるような啄木のつぎのような〈手〉が出てきます。
予は女の股に手を入れて、手荒くその陰部を掻きまわした。しまいには5本の指を入れてできるだけ強く押した。女はそれでも眼を覚まさぬ。(……)両手なり、足なりを入れてその陰部を裂いてやりたく思った。
石川啄木『ローマ字日記』
女のひとの〈なか〉にてをいれ、かきまわし、果ては殺そうとさえする啄木の手。
しかしそれをふだん使い慣れた〈文字(て)〉でそのまま〈言語化〉せず〈他者〉の内部に差し込んだ〈手〉をあらわすのに、妻=他者が読めないような〈ローマ字〉=〈文字(て)〉で他者を外部に差し置くために〈ローマ字日記〉を書く啄木。
ここには啄木の〈手〉がそのまま引き裂かれてある様子、〈手〉が〈手〉のままに回収しえない様態があらわれているようにもおもいます。
じっとみたはずの、その〈手〉はだれのものなのか。だれのものだったのか。
手は他者の内部ふかく、〈みられない〉領域=現実界にさしこまれることによって、ジェンダーバイアスのかかった〈殺意〉としても象徴化される(ちなみにラカンは訓(和)と音(漢)が葛藤しあう日本語はそれ自体、精神分析的な言語のプログラムだと『エクリ』序文でいっていましたが、だからこそかえってその脱精神分析的な〈ローマ字〉であらわされた『ローマ字日記』は興味深いようにもおもいます)。
このとき、手は、〈働いても働いても生活が楽にならずじっと手をみる〉ための労働としての階層格差のバイアスもひきうけた手から、男/女としてのジェンダーバイアスをそのままあらわす暴力的な手に転位している。
書くための手、掻くための手、欠くための手。
もちろん、描くための手もあります。
たとえばあるときは、啄木の〈手〉=書くこと=描くことは次のような植民化される〈国土〉としてのトポスを(〈韓国併合〉という〈国〉が〈国〉を〈内部〉から植民化する歴史的事態を背景に)黒々と塗りつぶす(ことをあえて〈再演〉してみせる)政治的な〈手〉にもなるのです。
そのとき、だれの手がだれの手に抵抗し、だれの手がだれの手によって抑圧されていくのか。
〈だれ〉がじっと〈手〉をみて・みないでいるのか。
地図の上
朝鮮国にくろぐろと
墨をぬりつつ秋風を聴く
石川啄木
(毎日新聞・毎日歌壇2015年1月12日・加藤治郎 選・特選)
本日の毎日歌壇にて、加藤治郎さんに特選に選んでいただき、次の歌評もいただきました。
加藤さん、ありがとうございました!
【評】石川啄木の「ぢつと手を見る」のパロディーである。レーズンはさえないが、現実感をうまく捉えている。
*
【啄木の手、わたしの手、かれの手、かのじょの手、かれらの手】
はたらけど
はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり
ぢつと手を見る
石川啄木
ときどき、レーズンパンを食べながら、啄木にとっての〈手〉のことをかんがえます。
けっして、〈手を見る〉というじぶんからじぶんへの再帰的な手でおわることのなかった啄木の手。
ひいては、他者とかかわらざるをえないわたしたちの手。レーズンパンをひきちぎりつつ。
啄木の『ローマ字日記』において、じぶんで「ぢつと」みつめることのできる〈手〉の対極にあるような啄木のつぎのような〈手〉が出てきます。
予は女の股に手を入れて、手荒くその陰部を掻きまわした。しまいには5本の指を入れてできるだけ強く押した。女はそれでも眼を覚まさぬ。(……)両手なり、足なりを入れてその陰部を裂いてやりたく思った。
石川啄木『ローマ字日記』
女のひとの〈なか〉にてをいれ、かきまわし、果ては殺そうとさえする啄木の手。
しかしそれをふだん使い慣れた〈文字(て)〉でそのまま〈言語化〉せず〈他者〉の内部に差し込んだ〈手〉をあらわすのに、妻=他者が読めないような〈ローマ字〉=〈文字(て)〉で他者を外部に差し置くために〈ローマ字日記〉を書く啄木。
ここには啄木の〈手〉がそのまま引き裂かれてある様子、〈手〉が〈手〉のままに回収しえない様態があらわれているようにもおもいます。
じっとみたはずの、その〈手〉はだれのものなのか。だれのものだったのか。
手は他者の内部ふかく、〈みられない〉領域=現実界にさしこまれることによって、ジェンダーバイアスのかかった〈殺意〉としても象徴化される(ちなみにラカンは訓(和)と音(漢)が葛藤しあう日本語はそれ自体、精神分析的な言語のプログラムだと『エクリ』序文でいっていましたが、だからこそかえってその脱精神分析的な〈ローマ字〉であらわされた『ローマ字日記』は興味深いようにもおもいます)。
このとき、手は、〈働いても働いても生活が楽にならずじっと手をみる〉ための労働としての階層格差のバイアスもひきうけた手から、男/女としてのジェンダーバイアスをそのままあらわす暴力的な手に転位している。
書くための手、掻くための手、欠くための手。
もちろん、描くための手もあります。
たとえばあるときは、啄木の〈手〉=書くこと=描くことは次のような植民化される〈国土〉としてのトポスを(〈韓国併合〉という〈国〉が〈国〉を〈内部〉から植民化する歴史的事態を背景に)黒々と塗りつぶす(ことをあえて〈再演〉してみせる)政治的な〈手〉にもなるのです。
そのとき、だれの手がだれの手に抵抗し、だれの手がだれの手によって抑圧されていくのか。
〈だれ〉がじっと〈手〉をみて・みないでいるのか。
地図の上
朝鮮国にくろぐろと
墨をぬりつつ秋風を聴く
石川啄木
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