【短歌】ふっと、闇…(毎日新聞・毎日歌壇2014/4/21 特選・加藤治郎 選)
- 2014/05/15
- 07:37
ふっと、闇。センサーに向け↑→↓←(ばたばた)と人感を出す俺の全力 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2014/4/21 特選・加藤治郎 選)
【自(分で)解(いてみる)―魔法をつかえる時代のなかで魔術的に挫折すること―】
選者の加藤治郎さんから次のような選評をいただいた。
「照明が落ちた。システムに感知されなくなった恐怖に慌てる。ユーモラスで哀しい。記号が修辞として生きている」。
加藤さんからことばをいただいてわたしがかんがえたのは、「システム」としての機械である。機械に接するということは実はわたしたちにとっては「システム」に接するということなのだ。ところが「システム」ということばにあらわれているように、感知され・感知されないわたしたちが逆にほとんど機械のことを感知できないところに「システム」はある。なにかが動いているのはわかる。体系のもとに機能しているのもわかる。しかしわたしたちにはその仕組みはじつはほとんどわからない。だから「システム」である。
機械とは、実は魔術的なものであり、機械が表象される際にはオカルト的な表象も加味されて言説化される場合がある(たとえば、 鈴木光司『リング』の貞子がビデオテープ=ビデオデッキとセットで表象=再・生産されていたように)。
前の記事で電車についての短歌をまとめてみたが(参照:電車短歌を恣意的にまとめてみました)、電車にしても実はほとんどのひとがその仕組みを知らない乗り物=機械である。けれども、その仕組みを知らない機械によってわたしたちは日々運ばれ、選別され、余暇を提供され、焦らされ、催眠され、ときに殺される。
電車自体が他者化していく過程にはもしかするとそういった〈魔術的機械〉としての要素があるのかもしれない。中澤系さんの短歌にあったように「理解できない人は下が」るしかない。理解できる/できないの範疇を超えて、わたしたちはときに電車から理由もなく殺される場合もあるからだ。そこにあっては、さがるか・さがらないかの問題でしかない。「さがって」と魔術的な呪文として指示しつづけるのが電車である。呪文は「理解できない」。が、「はねとば」す力はある。
わたしたちは思いの外、機械によって存在様式を決定させられている場合が少なくないようにもおもう。
「人感センサー」の「人感」とは、機械が「人」を選別するというそれまでにはなかった画期的言辞である。いまや「人」は〈人間性〉ではなく、データ化された〈気配〉で「人」かどうかが選別される。
しかし思ったよりも「人」としていきることは「気配」が消えることなのだ。人感センサーによってたびたび消灯してしまう。わたしが「人」として生きたために。
ここでは魔術的機械によって魔術的存在としてのわたしが発見されているのだといえるのでもないだろうか。
こんなかんたん化されたみらいにかんたんにとうめいにんげんになってしまった。みらいといういま、ここにおいてはどんどんゆめがかなう。←↑→↓といういりみだれたベクトルのなかで、ぎりぎりにわたしはまた魔法をつかう。それは、存在感をみなぎらせることで、灯りをともす、という皮肉めいたかなしい魔法である。
わたしもあなたもたくさんの(かなしい)まほうがつかえるじだいになった。いろんな(かなしい)まほうがばんばんつかえる。きかいのおかげで。
最後になりますが、加藤治郎さん、選評していただきまして、ありがとうございました。
(毎日新聞・毎日歌壇2014/4/21 特選・加藤治郎 選)
【自(分で)解(いてみる)―魔法をつかえる時代のなかで魔術的に挫折すること―】
選者の加藤治郎さんから次のような選評をいただいた。
「照明が落ちた。システムに感知されなくなった恐怖に慌てる。ユーモラスで哀しい。記号が修辞として生きている」。
加藤さんからことばをいただいてわたしがかんがえたのは、「システム」としての機械である。機械に接するということは実はわたしたちにとっては「システム」に接するということなのだ。ところが「システム」ということばにあらわれているように、感知され・感知されないわたしたちが逆にほとんど機械のことを感知できないところに「システム」はある。なにかが動いているのはわかる。体系のもとに機能しているのもわかる。しかしわたしたちにはその仕組みはじつはほとんどわからない。だから「システム」である。
機械とは、実は魔術的なものであり、機械が表象される際にはオカルト的な表象も加味されて言説化される場合がある(たとえば、 鈴木光司『リング』の貞子がビデオテープ=ビデオデッキとセットで表象=再・生産されていたように)。
前の記事で電車についての短歌をまとめてみたが(参照:電車短歌を恣意的にまとめてみました)、電車にしても実はほとんどのひとがその仕組みを知らない乗り物=機械である。けれども、その仕組みを知らない機械によってわたしたちは日々運ばれ、選別され、余暇を提供され、焦らされ、催眠され、ときに殺される。
電車自体が他者化していく過程にはもしかするとそういった〈魔術的機械〉としての要素があるのかもしれない。中澤系さんの短歌にあったように「理解できない人は下が」るしかない。理解できる/できないの範疇を超えて、わたしたちはときに電車から理由もなく殺される場合もあるからだ。そこにあっては、さがるか・さがらないかの問題でしかない。「さがって」と魔術的な呪文として指示しつづけるのが電車である。呪文は「理解できない」。が、「はねとば」す力はある。
わたしたちは思いの外、機械によって存在様式を決定させられている場合が少なくないようにもおもう。
「人感センサー」の「人感」とは、機械が「人」を選別するというそれまでにはなかった画期的言辞である。いまや「人」は〈人間性〉ではなく、データ化された〈気配〉で「人」かどうかが選別される。
しかし思ったよりも「人」としていきることは「気配」が消えることなのだ。人感センサーによってたびたび消灯してしまう。わたしが「人」として生きたために。
ここでは魔術的機械によって魔術的存在としてのわたしが発見されているのだといえるのでもないだろうか。
こんなかんたん化されたみらいにかんたんにとうめいにんげんになってしまった。みらいといういま、ここにおいてはどんどんゆめがかなう。←↑→↓といういりみだれたベクトルのなかで、ぎりぎりにわたしはまた魔法をつかう。それは、存在感をみなぎらせることで、灯りをともす、という皮肉めいたかなしい魔法である。
わたしもあなたもたくさんの(かなしい)まほうがつかえるじだいになった。いろんな(かなしい)まほうがばんばんつかえる。きかいのおかげで。
最後になりますが、加藤治郎さん、選評していただきまして、ありがとうございました。
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:短歌
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の短歌