【お知らせ】「小池正博に出逢うセーレン・オービエ・キルケゴール、あるいは二人(+1+1+1+n+…)でする草刈り 」『週刊俳句 第403号』
- 2015/01/14
- 12:52
『週刊俳句 第403号』にて「小池正博に出逢うセーレン・オービエ・キルケゴール、あるいは二人(+1+1+1+n+…)でする草刈り」という文章を載せていただきました。『週刊俳句』編集部にお礼申し上げます。ありがとうございました!
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
人間は相互の関係という点から見た場合、多くの言語の中に出てくる不規則動詞のようなものだ。動詞というものは、ほとんどすべてが不規則変化をする。
キルケゴール『日記』
今回は、川柳における〈関係〉に着目して、それをおびえるキルケゴールを経由しながら描いてみました。
この小池さんの句では、〈関係〉が明示してありますが、いかなる句も、いっけん目にはみえないだけで、さまざまな〈関係〉がいっしゅんのうちに束となって内在しているようにおもうのです。
そしてそうした内在された関係が関係していく〈時間〉によって五七五=川柳の意味生成が発動するのではないか。
そんなふうにおもうのです。
川柳のおいしさは、おそらけ、〈関係〉を〈蕩尽〉していくことにある。
世界にありとある〈関係〉を。
そしてその〈関係の蕩尽〉が、〈関係の消尽〉になるかもしれないという〈おそれとおののき〉をいだいたしゅんかん、ひとはまたあらたな生成にむかうのではないか。
ちなみに意味生成としての〈関係〉だけでなく、ジャンルがジャンルとどう関係しあうかという〈関係〉も同時にたいせつである、とおもいます。
小池さんはそのことにずっと自覚的に言説をつむいできたひとだったのではないかとおもうのです。
つまり、小池さんは「夏草の関係者」であるまえに、ジャンルに意識的に関係しようとする「ジャンルの関係」でもあった、と。
〈元気〉は、自己に、他者に、関係しようとする関係からうまれでてくると、わたしも、おもうのです。
川柳についての様々な言説が交錯し、それぞれの言説が相対化されることは、別段わるいことではない。実作者が作品を書いているときは、自らが川柳を書くための根拠となるようなある種の確信が必要であるが、川柳とは何かという問題に対しては、それぞれの言説にどれほどの根拠があるのかが常に問われなければならない。すべてを相対化する川柳精神からすれば絶対的な川柳観など自己矛盾でしかない。「川柳の幅」という言い方がされることがあるが、川柳形式がカバーできる領域はできるだけ広い方が居心地よい。(……)川柳形式によってまだ表現されていない新たな可能性があると考えると元気がでてくる。
小池正博「交錯する視線の中で川柳は相対化される」『蕩尽の文芸ー川柳と連句』まろうど社、2009年、p.275-6
私は再び私自身です。ほかの人なら路上にころがっていても拾いあげはしないこの「自己」を私は再び手に入れたのです。
キルケゴール『反復』
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
人間は相互の関係という点から見た場合、多くの言語の中に出てくる不規則動詞のようなものだ。動詞というものは、ほとんどすべてが不規則変化をする。
キルケゴール『日記』
今回は、川柳における〈関係〉に着目して、それをおびえるキルケゴールを経由しながら描いてみました。
この小池さんの句では、〈関係〉が明示してありますが、いかなる句も、いっけん目にはみえないだけで、さまざまな〈関係〉がいっしゅんのうちに束となって内在しているようにおもうのです。
そしてそうした内在された関係が関係していく〈時間〉によって五七五=川柳の意味生成が発動するのではないか。
そんなふうにおもうのです。
川柳のおいしさは、おそらけ、〈関係〉を〈蕩尽〉していくことにある。
世界にありとある〈関係〉を。
そしてその〈関係の蕩尽〉が、〈関係の消尽〉になるかもしれないという〈おそれとおののき〉をいだいたしゅんかん、ひとはまたあらたな生成にむかうのではないか。
ちなみに意味生成としての〈関係〉だけでなく、ジャンルがジャンルとどう関係しあうかという〈関係〉も同時にたいせつである、とおもいます。
小池さんはそのことにずっと自覚的に言説をつむいできたひとだったのではないかとおもうのです。
つまり、小池さんは「夏草の関係者」であるまえに、ジャンルに意識的に関係しようとする「ジャンルの関係」でもあった、と。
〈元気〉は、自己に、他者に、関係しようとする関係からうまれでてくると、わたしも、おもうのです。
川柳についての様々な言説が交錯し、それぞれの言説が相対化されることは、別段わるいことではない。実作者が作品を書いているときは、自らが川柳を書くための根拠となるようなある種の確信が必要であるが、川柳とは何かという問題に対しては、それぞれの言説にどれほどの根拠があるのかが常に問われなければならない。すべてを相対化する川柳精神からすれば絶対的な川柳観など自己矛盾でしかない。「川柳の幅」という言い方がされることがあるが、川柳形式がカバーできる領域はできるだけ広い方が居心地よい。(……)川柳形式によってまだ表現されていない新たな可能性があると考えると元気がでてくる。
小池正博「交錯する視線の中で川柳は相対化される」『蕩尽の文芸ー川柳と連句』まろうど社、2009年、p.275-6
私は再び私自身です。ほかの人なら路上にころがっていても拾いあげはしないこの「自己」を私は再び手に入れたのです。
キルケゴール『反復』
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