犬と短歌とあとがき。
- 2015/01/23
- 01:00
さいきんずっと安福望さんの「犬と短歌」の連載をなんども読み返していました。去年の秋にウェブマガジンの『アパートメント』で連載されていたものです。
安福さんの絵を観ていてときどきおもうのが、安福さんの絵においては、カタチが特徴的にあらわれているということです。
たとえばこの連載「犬と短歌」においては安福さんが飼っている犬の「マル」がいろんな角度から語られていくのですが、そもそもの名前が「マル」であるということが大事なようにもおもいます。
じっさい、この連載の絵もドーナッツの○など、○がたくさくんでてきます。
犬の「マル」はいろんな角度から語られていく一方で、「マル」は「マル」であることをやめません。
この連載のひとつのおもしろさに、マルがいろんな角度から語られながらも、マルはマルとしてあることをやめず、また語り手である安福さんもマルがマルであることの距離を尊重しているあたたかさがあります。マルの意志と選択がそこでは適度の距離をもって語られています(同時に、マルを飼っている安福さんのマルに対する意思と選択も)。
それがこの連載の語りの温度になっているようにわたしはおもいます(その温度は安福さんがふだん描かれている絵と短歌との距離感の温度にもあらわれているとおもいます)。
マルがマルでいられる空間と距離感こそが、マルがマルでいられる語りの温度です。
○はどこからみてもおそらく○です。
○はあれこれいろんな角度からみれば○としてのかたちは崩れていきますが、きほんてきには○です。
しかし、○を真横からみれば、マル○はひとつの線ーになることもあります。
線とはことばの領域です(無数の線の交錯によってことばは一文字一文字つくられます)。
この、○とーの関係。
わたしは安福さんの画は、線=ことばに、カタチ=○を与えることなのではないかともおもったりもするのです。
そしてそれこそが、おたがいのすこし重なりつつも、すこしちがった自律的な空間をめいめいに相互作用をおこしながらかたちづくっているのではないかとも。
わたしはかつて安福さんから体育座りの歌を絵にしていただいたのですが、そのときは△でした。
そしてやはりひとが体育座り=△をやめるときは、ひとがたちあがり、線になり、線でかたちづくられることばを語り出すときです(体育座りのまま饒舌なひとは、たぶん、いないでしょう)。
カタチと線の距離感をとらえること。
そのあたたかさをくずさないこと。
マル=○というカタチとしての名前をひきうけること。
安福さんの連載の第1回では木下さんの犬と名前をめぐる歌が引用されています。
ほんとうの名前を呼べばはいと言いタロウと呼べばワンと言う犬 木下龍也
この歌のポイントはわたしは、「ほんとうの名前」というところにあるようにおもうんです。
なんでもそうなんですが、たぶんひとは関係においては、きいてはいけない質問がある。
「ほんとうの名前」としての、「ほんとうの質問」が、ある。
その質問をしたら関係がこわれてしまう質問が。
だから、この木下さんの短歌では、「ほんとうの質問」をすると、犬が「はい」と答えます。
これは、ヒトと犬の〈関係〉が「ほんとうの質問」によってこわれるからです。
「はい」と犬がこたえた瞬間、ひとと犬の関係は崩れ、それまでとはちがう関係があらわれます。
それはすくなくとも関係のひとつの終わりであるわけです。
「ほんとうの質問」をするときとは、ひとが新たな関係を生きようとするときです。
しかし「ほんとうの質問」をしたがために、別れなければならなくなるかもしれない。
それでもそれをひきうけてなお、しつもんができるかどうかです。
寺山修司が、たしかこんなふうにいっていました。
ひとは人生でなんども答えることはできるが、しつもんはただいちどきりしかできない、と。
わたしはそれはこんな意味ではないのかとおもうのです。
しつもんをするということは、別れをひきうけてさえそれでもなおあいてになにかを問うことである、と。
だから、しつもんをするということはいつも〈終わり〉をもたらし、それはたったいちどきりのしつもんになるのだと。
しつもんは、なんどだって、できるのです。
でも、関係は、いちどきりなのです。
そして、しつもんをなげかけ、なにかをえらぶ、という行為はそういうことなのではないかと、おもうのです。
マルの名前はマルではなかったかもしれない。
ほんとうの名前をきけば、マルも「はい」と返事するかもしれない。
でも、安福さんは、「マル」と呼びかけ「ワン」と答えられることをえらんだのです。たぶん。
そしてマルも「ワン」とこたえることを、えらんだ。
「ほんとうの名前」ではないかもしれないけれど、マルはマルであることによって、安福さんの描いたドーナッツの○として、「ワン」とこたえることができる。そう、おもうのです。
ことば=線でなく。絵=○=マルとして。
たったひとりを選ぶ 運動場は雨 倉本朝世
安福さんの絵を観ていてときどきおもうのが、安福さんの絵においては、カタチが特徴的にあらわれているということです。
たとえばこの連載「犬と短歌」においては安福さんが飼っている犬の「マル」がいろんな角度から語られていくのですが、そもそもの名前が「マル」であるということが大事なようにもおもいます。
じっさい、この連載の絵もドーナッツの○など、○がたくさくんでてきます。
犬の「マル」はいろんな角度から語られていく一方で、「マル」は「マル」であることをやめません。
この連載のひとつのおもしろさに、マルがいろんな角度から語られながらも、マルはマルとしてあることをやめず、また語り手である安福さんもマルがマルであることの距離を尊重しているあたたかさがあります。マルの意志と選択がそこでは適度の距離をもって語られています(同時に、マルを飼っている安福さんのマルに対する意思と選択も)。
それがこの連載の語りの温度になっているようにわたしはおもいます(その温度は安福さんがふだん描かれている絵と短歌との距離感の温度にもあらわれているとおもいます)。
マルがマルでいられる空間と距離感こそが、マルがマルでいられる語りの温度です。
○はどこからみてもおそらく○です。
○はあれこれいろんな角度からみれば○としてのかたちは崩れていきますが、きほんてきには○です。
しかし、○を真横からみれば、マル○はひとつの線ーになることもあります。
線とはことばの領域です(無数の線の交錯によってことばは一文字一文字つくられます)。
この、○とーの関係。
わたしは安福さんの画は、線=ことばに、カタチ=○を与えることなのではないかともおもったりもするのです。
そしてそれこそが、おたがいのすこし重なりつつも、すこしちがった自律的な空間をめいめいに相互作用をおこしながらかたちづくっているのではないかとも。
わたしはかつて安福さんから体育座りの歌を絵にしていただいたのですが、そのときは△でした。
そしてやはりひとが体育座り=△をやめるときは、ひとがたちあがり、線になり、線でかたちづくられることばを語り出すときです(体育座りのまま饒舌なひとは、たぶん、いないでしょう)。
カタチと線の距離感をとらえること。
そのあたたかさをくずさないこと。
マル=○というカタチとしての名前をひきうけること。
安福さんの連載の第1回では木下さんの犬と名前をめぐる歌が引用されています。
ほんとうの名前を呼べばはいと言いタロウと呼べばワンと言う犬 木下龍也
この歌のポイントはわたしは、「ほんとうの名前」というところにあるようにおもうんです。
なんでもそうなんですが、たぶんひとは関係においては、きいてはいけない質問がある。
「ほんとうの名前」としての、「ほんとうの質問」が、ある。
その質問をしたら関係がこわれてしまう質問が。
だから、この木下さんの短歌では、「ほんとうの質問」をすると、犬が「はい」と答えます。
これは、ヒトと犬の〈関係〉が「ほんとうの質問」によってこわれるからです。
「はい」と犬がこたえた瞬間、ひとと犬の関係は崩れ、それまでとはちがう関係があらわれます。
それはすくなくとも関係のひとつの終わりであるわけです。
「ほんとうの質問」をするときとは、ひとが新たな関係を生きようとするときです。
しかし「ほんとうの質問」をしたがために、別れなければならなくなるかもしれない。
それでもそれをひきうけてなお、しつもんができるかどうかです。
寺山修司が、たしかこんなふうにいっていました。
ひとは人生でなんども答えることはできるが、しつもんはただいちどきりしかできない、と。
わたしはそれはこんな意味ではないのかとおもうのです。
しつもんをするということは、別れをひきうけてさえそれでもなおあいてになにかを問うことである、と。
だから、しつもんをするということはいつも〈終わり〉をもたらし、それはたったいちどきりのしつもんになるのだと。
しつもんは、なんどだって、できるのです。
でも、関係は、いちどきりなのです。
そして、しつもんをなげかけ、なにかをえらぶ、という行為はそういうことなのではないかと、おもうのです。
マルの名前はマルではなかったかもしれない。
ほんとうの名前をきけば、マルも「はい」と返事するかもしれない。
でも、安福さんは、「マル」と呼びかけ「ワン」と答えられることをえらんだのです。たぶん。
そしてマルも「ワン」とこたえることを、えらんだ。
「ほんとうの名前」ではないかもしれないけれど、マルはマルであることによって、安福さんの描いたドーナッツの○として、「ワン」とこたえることができる。そう、おもうのです。
ことば=線でなく。絵=○=マルとして。
たったひとりを選ぶ 運動場は雨 倉本朝世
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