【感想】未来に帰りたくないと泣く少年の頭がみるみる禿げてゆく夜 穂村弘
- 2015/01/24
- 00:58
未来に帰りたくないと泣く少年の頭がみるみる禿げてゆく夜 穂村弘
【時をかけざるをえない少年】
この短歌のひとつのふしぎさとぶきみさとおもしろさとリアルをその一点でもし指摘するとすれば、それは、この歌が、ひとが引き受けなければならない時間と身体の関係を描いているからではないかとおもうんです。
たとえどんなに設定がSFであったとしても、ひとはその身体に時間をひきうけなければいけない。
たとえば、スタニスワフ・レムが『ソラリス』というSF小説を書いているんですが、知的生命体のようにみずから息づくソラリスという海が、わたしたちの意思や記憶をさぐり、物質化してくる話です。
たとえば、記憶にあっただけのはずの、死んだ妻が主人公のまえによみがえってくる。
そのときに、主人公がひきうけなければいけないのは、死んだ妻がなぜよみがえってしまうのかというSF的出来事ではなく、死んだ妻といまここで向かい合っているときに、生前妻と共有していたはずの時間を、いまという時間からどう読み直すかというかつてあったはずの、そしていまありえたはずの時間をひきうけるドラマにもなっていたはずです。
「帰りたくないと泣く」意思にかかわらず、ひとは身体に時間を引き受けなければならないときがある。
「みるみる禿げてゆく」少年の時間、と、その少年を目撃していく「夜」を過ごしている語り手の時間。
「夜」と語り手が結語しているからには、この語り手もまた、朝・昼・夜がサイクルする時間のなかにいるはずです。
そして、この語り手が、この時間をひきうけざるをえなかった少年を〈短歌〉として組織したときに、この〈短歌〉を、語り手は、〈短歌〉として〈未来〉に送り込みつつも、〈未来〉でまたその〈短歌〉をひきうける瞬間がやってくる。
時をかけなければいけないのは、少年だけでなく、語り手もまた、無時間の外におかれることなく、その身に時間をひきうけなければならないからです。
そしてこの〈短歌〉自体も、やがて、〈時間〉を背負っていく。
生きていく以上、ひとは〈時間〉と契約せざるをえない。
でもその時間との契約をじぶんの〈生きる時間〉のなかに置き直していく作業が〈短歌化〉なのではないかとおもうのです。
それは、短歌をよんだ瞬間、じぶんが未来に歌ごと投げ込まれていくような暴力的未来でもあるけれど、それでもそれをひきうけるだけの身体性を詠めるかどうかということが、このみるみる禿げてゆく少年の身体に賭けられているように、おもうのです。
自動ドアばかりの街をどこまでも歩みゆくなり両手を垂れて 穂村弘
【時をかけざるをえない少年】
この短歌のひとつのふしぎさとぶきみさとおもしろさとリアルをその一点でもし指摘するとすれば、それは、この歌が、ひとが引き受けなければならない時間と身体の関係を描いているからではないかとおもうんです。
たとえどんなに設定がSFであったとしても、ひとはその身体に時間をひきうけなければいけない。
たとえば、スタニスワフ・レムが『ソラリス』というSF小説を書いているんですが、知的生命体のようにみずから息づくソラリスという海が、わたしたちの意思や記憶をさぐり、物質化してくる話です。
たとえば、記憶にあっただけのはずの、死んだ妻が主人公のまえによみがえってくる。
そのときに、主人公がひきうけなければいけないのは、死んだ妻がなぜよみがえってしまうのかというSF的出来事ではなく、死んだ妻といまここで向かい合っているときに、生前妻と共有していたはずの時間を、いまという時間からどう読み直すかというかつてあったはずの、そしていまありえたはずの時間をひきうけるドラマにもなっていたはずです。
「帰りたくないと泣く」意思にかかわらず、ひとは身体に時間を引き受けなければならないときがある。
「みるみる禿げてゆく」少年の時間、と、その少年を目撃していく「夜」を過ごしている語り手の時間。
「夜」と語り手が結語しているからには、この語り手もまた、朝・昼・夜がサイクルする時間のなかにいるはずです。
そして、この語り手が、この時間をひきうけざるをえなかった少年を〈短歌〉として組織したときに、この〈短歌〉を、語り手は、〈短歌〉として〈未来〉に送り込みつつも、〈未来〉でまたその〈短歌〉をひきうける瞬間がやってくる。
時をかけなければいけないのは、少年だけでなく、語り手もまた、無時間の外におかれることなく、その身に時間をひきうけなければならないからです。
そしてこの〈短歌〉自体も、やがて、〈時間〉を背負っていく。
生きていく以上、ひとは〈時間〉と契約せざるをえない。
でもその時間との契約をじぶんの〈生きる時間〉のなかに置き直していく作業が〈短歌化〉なのではないかとおもうのです。
それは、短歌をよんだ瞬間、じぶんが未来に歌ごと投げ込まれていくような暴力的未来でもあるけれど、それでもそれをひきうけるだけの身体性を詠めるかどうかということが、このみるみる禿げてゆく少年の身体に賭けられているように、おもうのです。
自動ドアばかりの街をどこまでも歩みゆくなり両手を垂れて 穂村弘
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