【感想】バッティングフォームがとても浄土宗 きゅういち
- 2015/01/27
- 21:38
バッティングフォームがとても浄土宗 きゅういち
【くちびるの思想】
この句って、わたしは潜在的には、「バッティングフォームがとてもじょうず」というセンテンスが含まれているようにおもうんです。
「バッティングフォームがとてもじょうず」は日常的にいうことばですよね。
だけれども、「じょうず」は「浄土宗」に移行した。
その、ひっぱりあげた磁力はなんだったか。
その磁力こそが、定型のちから、定型の思考、なのではないかとおもうんです。
定型として思考するということは、意味論でかんがえるのではなくて、リズムとして、音律としてかんがえるということです。
意味は、定型の場合は、あとからついてくるのです。
その意味で、定型の思想とは、くちびるの思想でもあります。
言ってしまったら、それが意味なのです。
「じょうず」だと3音にしかならないけれど、「じょうどしゅう」なら5音になります。
これが、くちびるの思想です。
そしてあとから意味がやってきて、「バッティングフォーム」まで書き換えていきます。
「浄土宗」っていうのは、念仏をとなえつづけるスタイルの宗教なので、ともかく唱えつづけることが大事になってきます。こういってよければ、形式を死守する宗教なんです。形式を続けることによって意味の彼岸に到達し、救済されるのが(たぶん)浄土宗です。
そういった形式の宗教が、「フォーム」の意味を書き換えていく。
「バッティングフォーム」の「フォーム」が、ひとが生きていくことの形式の継続としての生をひきうけていく。
これらすべてが、〈定型〉=くちびるからはじまっている。
これが、くちびるから散弾銃のような、くちびるの思想なのではないかとおもうんです。
たとえば、つぎのようなきゅういちさんの句も、潜在的には、「五時ですねでは朗読を続けます」やあるいはもっと「六時ですね/七時ですね/三時ですね/十二時ですね/真夜中ですねでは朗読を続けます」を潜在的にふくんでいる。
でも、くちびるから撃たれたことばは、
火事ですねでは朗読を続けます きゅういち
【くちびるの思想】
この句って、わたしは潜在的には、「バッティングフォームがとてもじょうず」というセンテンスが含まれているようにおもうんです。
「バッティングフォームがとてもじょうず」は日常的にいうことばですよね。
だけれども、「じょうず」は「浄土宗」に移行した。
その、ひっぱりあげた磁力はなんだったか。
その磁力こそが、定型のちから、定型の思考、なのではないかとおもうんです。
定型として思考するということは、意味論でかんがえるのではなくて、リズムとして、音律としてかんがえるということです。
意味は、定型の場合は、あとからついてくるのです。
その意味で、定型の思想とは、くちびるの思想でもあります。
言ってしまったら、それが意味なのです。
「じょうず」だと3音にしかならないけれど、「じょうどしゅう」なら5音になります。
これが、くちびるの思想です。
そしてあとから意味がやってきて、「バッティングフォーム」まで書き換えていきます。
「浄土宗」っていうのは、念仏をとなえつづけるスタイルの宗教なので、ともかく唱えつづけることが大事になってきます。こういってよければ、形式を死守する宗教なんです。形式を続けることによって意味の彼岸に到達し、救済されるのが(たぶん)浄土宗です。
そういった形式の宗教が、「フォーム」の意味を書き換えていく。
「バッティングフォーム」の「フォーム」が、ひとが生きていくことの形式の継続としての生をひきうけていく。
これらすべてが、〈定型〉=くちびるからはじまっている。
これが、くちびるから散弾銃のような、くちびるの思想なのではないかとおもうんです。
たとえば、つぎのようなきゅういちさんの句も、潜在的には、「五時ですねでは朗読を続けます」やあるいはもっと「六時ですね/七時ですね/三時ですね/十二時ですね/真夜中ですねでは朗読を続けます」を潜在的にふくんでいる。
でも、くちびるから撃たれたことばは、
火事ですねでは朗読を続けます きゅういち
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