【感想】お刺身の上に乗ってるタンポポも食べた童貞喪失の夜 小坂井大輔
- 2015/01/27
- 22:08
お刺身の上に乗ってるタンポポも食べた童貞喪失の夜 小坂井大輔
【童貞をめぐる冒険】
乳につづいて、短詩における童貞についてもよくかんがえているんですが、いぜん、しんくわさんのつぎの短歌の感想文を書いたことがあります。
ぬばたまの夜のプールの水中で靴下を脱ぐ 童貞だった しんくわ
この短歌では、枕詞がつかわれていますが、枕詞の「ぬばたま」が〈ぬばぬば〉した感じとしてもあらわれている。
水中で靴下を脱ぐ〈ぬばぬば〉感。
それが、「童貞だった」という言語化できない、抑圧された〈ぬばぬば〉感になっている。
で、小坂井さんの歌は「童貞喪失の夜」なので、童貞ではなくなっているわけなんですが、実はしんくわさんの歌も童貞感を歌いながらも、童貞を喪失したあとの見地から語っていることが重要です。「童貞だった」ということは、いまはすくなくとも「童貞ではない」ということであり、また「童貞ではない」からこそ、童貞感が記述できたということなのではないかとおもうのです。
つまり、ふたつの童貞をめぐる短歌からいえることは、童貞というのは〈喪失〉してはじめて語ることができるもの、短歌として言語化できるものなのではないか、ということです。
もちろん、例外は多々あるとおもいます。語り手が童貞の渦中にいつつ、童貞をうたう短歌もあるとおもうので(ちなみに大事なことだとおもうのですが、童貞をめぐる短歌は事実関係の問題ではなく、短歌という言語表現における語りの時制の問題とおもっています)。
小坂井さんの短歌では、お刺身のタンポポを食べてしまっています。食べてしまったとわたしが記述したのは、語り手が「タンポポも食べた」と「も」というある意味、それまでしなかった行為につけくわえてさらに踏み越えて行ったかのような添加・強調の助詞がつかわれているからです。
タンポポさえも食べた。語り手は、踏み越えた。
だから、これは童貞をめぐる短歌でありながら、同時に、境界線を越えることの短歌にもなっています。
童貞を喪ってから、語り手が踏み越えてから、童貞がはじめて語られうるものであること。
これは、なにかに、似ています。
〈故郷〉です。
ノスタルジーや故郷は、たいてい、〈距離〉によって見いだされます。
それは喪失することで発見されるのです。
ふるさとにいるあいだは、ふるさとは見出しえない。
じぶんがかえれないことをしったとき、はじめてそれをみいだしうる。
たとえば成田龍一さんによれば、「故郷」がさかんに語られたのは、歴史的にいつも「国民国家の節目」であった時期なのだそうですが、つまり、〈国〉が揺れる、あるいは〈国〉が〈国〉として踏み越えようとするときに、それによっていままであったはずの〈国〉がうしなわれそうなときに、「故郷」がひとびとのくちにのぼるようになる。
「童貞」も「故郷」も喪失するモメントが起こるたびに、〈発見〉される。
童貞は童貞でないひとによって。
故郷は故郷にかえれないひとによって。
それが、童貞だったりするのではないかとおもったりするのです。たんぽぽ。
わからないわからないけど顔らへん納豆の糸顔らへんふわり 小坂井大輔
【童貞をめぐる冒険】
乳につづいて、短詩における童貞についてもよくかんがえているんですが、いぜん、しんくわさんのつぎの短歌の感想文を書いたことがあります。
ぬばたまの夜のプールの水中で靴下を脱ぐ 童貞だった しんくわ
この短歌では、枕詞がつかわれていますが、枕詞の「ぬばたま」が〈ぬばぬば〉した感じとしてもあらわれている。
水中で靴下を脱ぐ〈ぬばぬば〉感。
それが、「童貞だった」という言語化できない、抑圧された〈ぬばぬば〉感になっている。
で、小坂井さんの歌は「童貞喪失の夜」なので、童貞ではなくなっているわけなんですが、実はしんくわさんの歌も童貞感を歌いながらも、童貞を喪失したあとの見地から語っていることが重要です。「童貞だった」ということは、いまはすくなくとも「童貞ではない」ということであり、また「童貞ではない」からこそ、童貞感が記述できたということなのではないかとおもうのです。
つまり、ふたつの童貞をめぐる短歌からいえることは、童貞というのは〈喪失〉してはじめて語ることができるもの、短歌として言語化できるものなのではないか、ということです。
もちろん、例外は多々あるとおもいます。語り手が童貞の渦中にいつつ、童貞をうたう短歌もあるとおもうので(ちなみに大事なことだとおもうのですが、童貞をめぐる短歌は事実関係の問題ではなく、短歌という言語表現における語りの時制の問題とおもっています)。
小坂井さんの短歌では、お刺身のタンポポを食べてしまっています。食べてしまったとわたしが記述したのは、語り手が「タンポポも食べた」と「も」というある意味、それまでしなかった行為につけくわえてさらに踏み越えて行ったかのような添加・強調の助詞がつかわれているからです。
タンポポさえも食べた。語り手は、踏み越えた。
だから、これは童貞をめぐる短歌でありながら、同時に、境界線を越えることの短歌にもなっています。
童貞を喪ってから、語り手が踏み越えてから、童貞がはじめて語られうるものであること。
これは、なにかに、似ています。
〈故郷〉です。
ノスタルジーや故郷は、たいてい、〈距離〉によって見いだされます。
それは喪失することで発見されるのです。
ふるさとにいるあいだは、ふるさとは見出しえない。
じぶんがかえれないことをしったとき、はじめてそれをみいだしうる。
たとえば成田龍一さんによれば、「故郷」がさかんに語られたのは、歴史的にいつも「国民国家の節目」であった時期なのだそうですが、つまり、〈国〉が揺れる、あるいは〈国〉が〈国〉として踏み越えようとするときに、それによっていままであったはずの〈国〉がうしなわれそうなときに、「故郷」がひとびとのくちにのぼるようになる。
「童貞」も「故郷」も喪失するモメントが起こるたびに、〈発見〉される。
童貞は童貞でないひとによって。
故郷は故郷にかえれないひとによって。
それが、童貞だったりするのではないかとおもったりするのです。たんぽぽ。
わからないわからないけど顔らへん納豆の糸顔らへんふわり 小坂井大輔
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