【感想】きつねうどんの頃は覚えてないきつね 久保田紺
- 2015/01/27
- 23:30
きつねうどんの頃は覚えてないきつね 久保田紺
【回想するうどん】
これ、おもしろい句だなあとおもったんですが、すぐに気になったのが、じゃあ、うどんはなにをかんがえていたんだろうってことです。
きつねは、きつねうどんのころは、覚えてないんだけれども、「は」という選択・比較の助詞がつかわれている以上、ほかのことは覚えているはずです。
だったら、うどんはそういう記憶したり回想したりする身体や機能をもっていなかったのか。
きつねには主体性はあったけれど、うどんはどうなんだろうということです。
で、ですね。
ここで、ふしぎなことに気がつくはずです。
うどんはどうなんだ、と問いかけたときに、そもそも、きつねもきつねうどんのころは覚えてないと記述されているわけです。
だとしたら、きつね自身は、覚えてないことを知らないはずです。《覚えてない》んですから。
つまり、ここで全面的にあらわれている記憶って、《だれ》の記憶かというと、語り手の記憶=記録なんです。
きつねは覚えてないことを、語り手は《知っ》ているし、《覚え》てもいる。
だから、ここには、みっつの記憶が、ある。
スルーされてしまったうどんの記憶。
本人はまだ気づかずにいるきつねの記憶。
そしてなにもかもを(おそらくは)覚えている語り手の記憶。
そしてこの句をうけとったわたしたちの記憶。
それが、みっつの記憶からうまれるよっつめの記憶です。
久保田紺さんには《記憶》というテーマがあります。
たとえばお葬式は、あえてこんなことばでいいあらわすならば、ひとびとがわすれないよう記憶するメモリアルだともいえます。
お葬式をすることによってひとはひとをわすれないようにする。記憶しよう、という行為ではなく、儀式をおこなうことによってそのおこないをからだに記憶させるわけです。
でも、そのお葬式が〈数〉としてあらわれた場合、記憶のありかたは、どう変わるのでしょうか。
それは、すなわち、いや、たとえば、
弟は出る両方のお葬式 久保田紺
【回想するうどん】
これ、おもしろい句だなあとおもったんですが、すぐに気になったのが、じゃあ、うどんはなにをかんがえていたんだろうってことです。
きつねは、きつねうどんのころは、覚えてないんだけれども、「は」という選択・比較の助詞がつかわれている以上、ほかのことは覚えているはずです。
だったら、うどんはそういう記憶したり回想したりする身体や機能をもっていなかったのか。
きつねには主体性はあったけれど、うどんはどうなんだろうということです。
で、ですね。
ここで、ふしぎなことに気がつくはずです。
うどんはどうなんだ、と問いかけたときに、そもそも、きつねもきつねうどんのころは覚えてないと記述されているわけです。
だとしたら、きつね自身は、覚えてないことを知らないはずです。《覚えてない》んですから。
つまり、ここで全面的にあらわれている記憶って、《だれ》の記憶かというと、語り手の記憶=記録なんです。
きつねは覚えてないことを、語り手は《知っ》ているし、《覚え》てもいる。
だから、ここには、みっつの記憶が、ある。
スルーされてしまったうどんの記憶。
本人はまだ気づかずにいるきつねの記憶。
そしてなにもかもを(おそらくは)覚えている語り手の記憶。
そしてこの句をうけとったわたしたちの記憶。
それが、みっつの記憶からうまれるよっつめの記憶です。
久保田紺さんには《記憶》というテーマがあります。
たとえばお葬式は、あえてこんなことばでいいあらわすならば、ひとびとがわすれないよう記憶するメモリアルだともいえます。
お葬式をすることによってひとはひとをわすれないようにする。記憶しよう、という行為ではなく、儀式をおこなうことによってそのおこないをからだに記憶させるわけです。
でも、そのお葬式が〈数〉としてあらわれた場合、記憶のありかたは、どう変わるのでしょうか。
それは、すなわち、いや、たとえば、
弟は出る両方のお葬式 久保田紺
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