【感想】兄ちゃんが盗んだ僕も手伝った くんじろう
- 2015/01/28
- 20:27
兄ちゃんが盗んだ僕も手伝った くんじろう
【盗賊たちの詩性=私性】
くんじろうさんの有名な句です。
のちにくんじろうさんがこの句を詩のボクシングで詩にして朗読されています。
このくんじろうさんのインパクトある句を、くんじろうさんの主催されているおなじ『川柳・北田辺』に出席されている紫乙さんのつぎのような句と結びつけてかんがえてみたいとおもうのです。
お店から盗って来た本くれる彼 竹井紫乙
どちらもまず共通してるのは、〈盗んで〉いることです。
しかし、一般的な〈盗む〉行為とはちがいます。
ここでは、倫理的な次元で盗む行為が語られているわけではありません。語り手は、盗みがよいかわるいかを語ろうとしているわけではありません。
それは、なぜか。
〈なに〉を盗むか、〈なに〉を盗もうとしているか、〈なに〉を盗んだか、を主題においている句ではないからです。
むしろ、語り手が焦点をあてているのは、〈盗む〉という行為自体です。
ですから、このふたつの句における〈盗む〉という行為は、じぶんの利益のためではなく、〈わたし〉と〈あなた〉がつながりあうための〈盗む〉という行為です。
「兄ちゃん」と「僕」が、「彼」と〈わたし〉がつながる、つながってしまう行為、それがこれらの句の〈盗む〉です。
くんじろうさんの句で大事なのは「僕も」という〈も〉という助詞が発動していることです。
盗みを働いてどきどきした、や、こんな感情を得たということに語り手の主眼があるのではないのです。
「兄ちゃん」とおなじ主体性に「僕」が置かれたことが、「僕」にはうれしかったのです。たとえそれが〈盗み〉でも。
いっぽうで、紫乙さんの句では、語り手が〈盗み〉で「彼」とつながってしまったことがうれしいかどうかの判断は保留されています。
ここでは語り手の心情や内面はみえません。
ただ、結語に「彼」が置かれていることはたしかです。
そこが、ポイントです。
語り手がさいごにみているものは、「彼」です。
くんじろうさんが『川柳・北田辺51』の「放蕩言」でこんなふうに書かれています。
どちらかと言えば、ためになるような詩や句は好まない。
「ためになる」句ではなく、句がことばとして組織されたときに、その句が読み手のめいめいに届けられることによって、その句がどのような〈読ませる〉ちからを発動していくか。
一義的に、ためになる読ませ方をするのではなく、読み手自身が句のなかからじぶんの読み方をひっぱりだすこと。ひっぱりだせる川柳があること。
それが、このくんじろうさんと紫乙さんの句には、端的に、あらわれているのではないかとも、おもうのです。
川柳は、たぶん、〈ひとり〉でしなければならないことを、〈ひとり〉のままに、思いもかけない読み手にとどけていくこと。そして読み手をも〈ひとり〉として自律=自立させ、読み手を思いがけない場所へと連れていくことではないかとも、おもうのです。
その意味で、川柳は、たぶん、いつも、〈たったひとり〉なのです。
白鳥をたった一人で干している 榊陽子
【盗賊たちの詩性=私性】
くんじろうさんの有名な句です。
のちにくんじろうさんがこの句を詩のボクシングで詩にして朗読されています。
このくんじろうさんのインパクトある句を、くんじろうさんの主催されているおなじ『川柳・北田辺』に出席されている紫乙さんのつぎのような句と結びつけてかんがえてみたいとおもうのです。
お店から盗って来た本くれる彼 竹井紫乙
どちらもまず共通してるのは、〈盗んで〉いることです。
しかし、一般的な〈盗む〉行為とはちがいます。
ここでは、倫理的な次元で盗む行為が語られているわけではありません。語り手は、盗みがよいかわるいかを語ろうとしているわけではありません。
それは、なぜか。
〈なに〉を盗むか、〈なに〉を盗もうとしているか、〈なに〉を盗んだか、を主題においている句ではないからです。
むしろ、語り手が焦点をあてているのは、〈盗む〉という行為自体です。
ですから、このふたつの句における〈盗む〉という行為は、じぶんの利益のためではなく、〈わたし〉と〈あなた〉がつながりあうための〈盗む〉という行為です。
「兄ちゃん」と「僕」が、「彼」と〈わたし〉がつながる、つながってしまう行為、それがこれらの句の〈盗む〉です。
くんじろうさんの句で大事なのは「僕も」という〈も〉という助詞が発動していることです。
盗みを働いてどきどきした、や、こんな感情を得たということに語り手の主眼があるのではないのです。
「兄ちゃん」とおなじ主体性に「僕」が置かれたことが、「僕」にはうれしかったのです。たとえそれが〈盗み〉でも。
いっぽうで、紫乙さんの句では、語り手が〈盗み〉で「彼」とつながってしまったことがうれしいかどうかの判断は保留されています。
ここでは語り手の心情や内面はみえません。
ただ、結語に「彼」が置かれていることはたしかです。
そこが、ポイントです。
語り手がさいごにみているものは、「彼」です。
くんじろうさんが『川柳・北田辺51』の「放蕩言」でこんなふうに書かれています。
どちらかと言えば、ためになるような詩や句は好まない。
「ためになる」句ではなく、句がことばとして組織されたときに、その句が読み手のめいめいに届けられることによって、その句がどのような〈読ませる〉ちからを発動していくか。
一義的に、ためになる読ませ方をするのではなく、読み手自身が句のなかからじぶんの読み方をひっぱりだすこと。ひっぱりだせる川柳があること。
それが、このくんじろうさんと紫乙さんの句には、端的に、あらわれているのではないかとも、おもうのです。
川柳は、たぶん、〈ひとり〉でしなければならないことを、〈ひとり〉のままに、思いもかけない読み手にとどけていくこと。そして読み手をも〈ひとり〉として自律=自立させ、読み手を思いがけない場所へと連れていくことではないかとも、おもうのです。
その意味で、川柳は、たぶん、いつも、〈たったひとり〉なのです。
白鳥をたった一人で干している 榊陽子
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