【感想】「ジロー、チェンジ、キカイダー」と命じても「ううう」と呻く加藤治郎は 穂村弘
- 2015/01/29
- 01:01
「ジロー、チェンジ、キカイダー」と命じても「ううう」と呻く加藤治郎は 穂村弘
【変身しなかったジローさんをめぐる冒険】
穂村さん自身がよくいってることだとおもうんですが、フィクションをたちあげることによって世界のリアルがふいに現前することがある、そんなふうなことを穂村さんってたびたびくちにしているとおもうんです。
事実を事実的文体によってたちあげるよりも、むしろフィクションをフィクショナルな文体および定型によってたちあげることによって〈現実的なもの(リアル)〉が、ぬっと、わきでてくる。
事実、ではなく、現実的なもの、が。
ただ、穂村さんの歌の構造のなかにも、現実的なもの=現実界がたちあがってくる仕掛けのようなものがあるとおもうんです。
たとえば、うえの加藤治郎さんを歌ったうたなんですが、キカイダーに変身(モードチェンジ)するフィクション=物語上の人造人間ジローと、歌人である「加藤治郎」さんが、〈JI-RO〉という音律によって交錯することによってなにがあらわれてくるかというと、ここには、音律上、たとえ同一化させようとしても、同一化できない〈現実の限界〉があらわれているようにおもうんです。
生身の身体には、フィクションをささえられる臨界点がある。
でもその臨界点は、言語化できない。
だから、「加藤治郎」さんが「ううう」とうめいているけれど、この〈うめき〉は、言語化できない非言語としての〈うめき〉です。
しかし、言語で把持できないからこそ、リアルでぶきみな、現実界がたちあらわれてきている。
穂村さんのよく引用される有名なうたで、
「凍る、燃える、凍る、燃える」と占いの花びら毟る宇宙飛行士 穂村弘
というのがあるけれども、わたしはおそらくこの歌にも、身体がフィクションを支えられる臨界点があらわれているとおもう。
つまり、占いというフィクションを宇宙飛行士は支えきれず、燃えたり凍ったりしてしまう臨界点とむきあっている。
この、「凍る、燃える、凍る、燃える」も、ことばの分節の領域というよりは、リズミカルで呪術的な、〈歌=呪言〉というどちらかというと非言語的な領域です。ことばは、くりかえしてみればわかりますが、くりかえせば、意味がこわれていくわけです。やぎもともともともともともともともともともともともともともともともともともともともともともともともともともともと、みたいに。
こういった、フィクショナルな空間をたちあげながらも、構造として、臨界が露出していくような、仕掛けをほどこしていく。
そこに、穂村さんの短歌のひとつのリアルがあるようにもおもうのです。
ゴージャスな背もたれから背を数センチ浮かせ続ける天皇陛下 穂村弘
【変身しなかったジローさんをめぐる冒険】
穂村さん自身がよくいってることだとおもうんですが、フィクションをたちあげることによって世界のリアルがふいに現前することがある、そんなふうなことを穂村さんってたびたびくちにしているとおもうんです。
事実を事実的文体によってたちあげるよりも、むしろフィクションをフィクショナルな文体および定型によってたちあげることによって〈現実的なもの(リアル)〉が、ぬっと、わきでてくる。
事実、ではなく、現実的なもの、が。
ただ、穂村さんの歌の構造のなかにも、現実的なもの=現実界がたちあがってくる仕掛けのようなものがあるとおもうんです。
たとえば、うえの加藤治郎さんを歌ったうたなんですが、キカイダーに変身(モードチェンジ)するフィクション=物語上の人造人間ジローと、歌人である「加藤治郎」さんが、〈JI-RO〉という音律によって交錯することによってなにがあらわれてくるかというと、ここには、音律上、たとえ同一化させようとしても、同一化できない〈現実の限界〉があらわれているようにおもうんです。
生身の身体には、フィクションをささえられる臨界点がある。
でもその臨界点は、言語化できない。
だから、「加藤治郎」さんが「ううう」とうめいているけれど、この〈うめき〉は、言語化できない非言語としての〈うめき〉です。
しかし、言語で把持できないからこそ、リアルでぶきみな、現実界がたちあらわれてきている。
穂村さんのよく引用される有名なうたで、
「凍る、燃える、凍る、燃える」と占いの花びら毟る宇宙飛行士 穂村弘
というのがあるけれども、わたしはおそらくこの歌にも、身体がフィクションを支えられる臨界点があらわれているとおもう。
つまり、占いというフィクションを宇宙飛行士は支えきれず、燃えたり凍ったりしてしまう臨界点とむきあっている。
この、「凍る、燃える、凍る、燃える」も、ことばの分節の領域というよりは、リズミカルで呪術的な、〈歌=呪言〉というどちらかというと非言語的な領域です。ことばは、くりかえしてみればわかりますが、くりかえせば、意味がこわれていくわけです。やぎもともともともともともともともともともともともともともともともともともともともともともともともともともともと、みたいに。
こういった、フィクショナルな空間をたちあげながらも、構造として、臨界が露出していくような、仕掛けをほどこしていく。
そこに、穂村さんの短歌のひとつのリアルがあるようにもおもうのです。
ゴージャスな背もたれから背を数センチ浮かせ続ける天皇陛下 穂村弘
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