【感想】目撃・気づき・おののき-嶋田さくらこ・岡野大嗣・虫武一俊-
- 2015/01/30
- 07:00
アスファルトの上に小さな生きものをばらまいて銀のトラックは過ぐ 嶋田さくらこ
【事件は短歌で起きている】
虫武一俊さんが自身のブログで指摘されていたんですが、さくらこさんの短歌の〈恋愛〉だけでなく、〈生〉へのまなざしがわたしもおもしろいなと感じました。
たとえばうえの短歌なんですが、なぜ「トラック」ではなく、「銀のトラック」だったんでしょう。
わたしがおもうのは、「銀のトラック」は「生きもの」ではないからです。
「銀の」ということで無機質な感じが強調されます。
しかしその「銀のトラック」がまるで有機的、産卵=散乱するように、「小さな生きものをばらまいて」いったのを語り手は眼にしたのです。
ここで大事なのは、ばらまかれた出来事、よりもむしろ、それを〈目撃〉している語り手です。
それを〈目撃〉し、語り、記述し、〈出来事〉化=〈短歌〉化するということは、語り手にとってそれが〈短歌〉となりうべき〈出来事性〉を帯びていたからです。
その〈出来事性〉を、ばらまかれた「小さな生きもの」という〈事件〉を忘れないように短歌として語ることが、語り手の〈生〉なのではないかとおもうのです。
たとえばこれは、やはり虫武さんが紹介されている岡野さんの短歌にもそうした生としてのまなざしがでてきます。
地下街は地下道になるいつしかにBGMが消えたあたりで 岡野大嗣
これは「小さな生きもの」がばらまかれた瞬間のちがう位相なのではないかとわたしはかんがえています。
「地下街」が「地下道」になるその分水峰に語り手は気づいてしまった。そしてそれが〈出来事性〉だった。
本来、無期的な「BGM」を介して、語り手は世界の有機性に気づき、そしてそれを〈事件〉として〈短歌〉化した。それがやはり語り手の〈短歌〉としての生なのです。さくらこさんの歌の語り手が〈目撃〉として〈短歌〉化したように、岡野さんの歌の語り手にとっては〈気づき〉を〈短歌〉化することが大事だったのです。
虫武さんのブログを拝読してこのことに気がついたのですが、じつは虫武さんの短歌にも、
献血の出前バスから黒布の覗くしずかな極東の午後 虫武一俊
のように、なによりも、「献血の出前バス」に「黒布の覗く」という〈事件〉をみいだしている虫武さんの短歌が、ある。
しかもこの短歌で大事なのは「極東」と、〈いま・ここ〉が相対的に語られている点です。ここ、でも、あそこ、でも、日本、でもなく、「極東」。
語り手が、こうして〈いま・ここ〉を相対化し、中心ではなく、周縁として語っていることも、また〈事件〉です。
あることを〈目撃〉し、〈きづく〉ことによって、〈いま・ここ〉の場所性が、変わってしまうこと。
それもまた事件なのです(よって、「事件は現場で起きている」わけでもないのです。短歌では現場さえも、〈異界〉化することがある。すこし乱暴にいえば、ふだん気がつかなかったことに気がついたときの〈おののき〉がいま・ここを周縁化してしまい違った場所感覚にしてしまうこと)
短歌とは、事件なのです。
事件は会議室で起きているんじゃない。
現場で起きているわけでもない。
事件は、短歌で、起きている。
それが、〈新鋭短歌〉(と、〈新鋭短歌〉を読む虫武さん)が教えてくれることなのです。
いなくなる妹たちのオルゴール鳴らせば子供部屋だったこと 嶋田さくらこ
河川敷が朝にまみれてその朝が電車の中の僕にまで来る 岡野大嗣
草と風のもつれる秋の底にきて抱き起こすこれは自転車なのか 虫武一俊
【事件は短歌で起きている】
虫武一俊さんが自身のブログで指摘されていたんですが、さくらこさんの短歌の〈恋愛〉だけでなく、〈生〉へのまなざしがわたしもおもしろいなと感じました。
たとえばうえの短歌なんですが、なぜ「トラック」ではなく、「銀のトラック」だったんでしょう。
わたしがおもうのは、「銀のトラック」は「生きもの」ではないからです。
「銀の」ということで無機質な感じが強調されます。
しかしその「銀のトラック」がまるで有機的、産卵=散乱するように、「小さな生きものをばらまいて」いったのを語り手は眼にしたのです。
ここで大事なのは、ばらまかれた出来事、よりもむしろ、それを〈目撃〉している語り手です。
それを〈目撃〉し、語り、記述し、〈出来事〉化=〈短歌〉化するということは、語り手にとってそれが〈短歌〉となりうべき〈出来事性〉を帯びていたからです。
その〈出来事性〉を、ばらまかれた「小さな生きもの」という〈事件〉を忘れないように短歌として語ることが、語り手の〈生〉なのではないかとおもうのです。
たとえばこれは、やはり虫武さんが紹介されている岡野さんの短歌にもそうした生としてのまなざしがでてきます。
地下街は地下道になるいつしかにBGMが消えたあたりで 岡野大嗣
これは「小さな生きもの」がばらまかれた瞬間のちがう位相なのではないかとわたしはかんがえています。
「地下街」が「地下道」になるその分水峰に語り手は気づいてしまった。そしてそれが〈出来事性〉だった。
本来、無期的な「BGM」を介して、語り手は世界の有機性に気づき、そしてそれを〈事件〉として〈短歌〉化した。それがやはり語り手の〈短歌〉としての生なのです。さくらこさんの歌の語り手が〈目撃〉として〈短歌〉化したように、岡野さんの歌の語り手にとっては〈気づき〉を〈短歌〉化することが大事だったのです。
虫武さんのブログを拝読してこのことに気がついたのですが、じつは虫武さんの短歌にも、
献血の出前バスから黒布の覗くしずかな極東の午後 虫武一俊
のように、なによりも、「献血の出前バス」に「黒布の覗く」という〈事件〉をみいだしている虫武さんの短歌が、ある。
しかもこの短歌で大事なのは「極東」と、〈いま・ここ〉が相対的に語られている点です。ここ、でも、あそこ、でも、日本、でもなく、「極東」。
語り手が、こうして〈いま・ここ〉を相対化し、中心ではなく、周縁として語っていることも、また〈事件〉です。
あることを〈目撃〉し、〈きづく〉ことによって、〈いま・ここ〉の場所性が、変わってしまうこと。
それもまた事件なのです(よって、「事件は現場で起きている」わけでもないのです。短歌では現場さえも、〈異界〉化することがある。すこし乱暴にいえば、ふだん気がつかなかったことに気がついたときの〈おののき〉がいま・ここを周縁化してしまい違った場所感覚にしてしまうこと)
短歌とは、事件なのです。
事件は会議室で起きているんじゃない。
現場で起きているわけでもない。
事件は、短歌で、起きている。
それが、〈新鋭短歌〉(と、〈新鋭短歌〉を読む虫武さん)が教えてくれることなのです。
いなくなる妹たちのオルゴール鳴らせば子供部屋だったこと 嶋田さくらこ
河川敷が朝にまみれてその朝が電車の中の僕にまで来る 岡野大嗣
草と風のもつれる秋の底にきて抱き起こすこれは自転車なのか 虫武一俊
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