【感想】もういちどニシノユキヒコと恋をめぐる冒険―ダイスキ・スタディーズ―
- 2015/02/02
- 01:17
ご縁がありますずっと他人です 久保田紺
西野くんは冷たい。そして、その冷たさは、あたたかな裏打ちを持っている。すっかり冷たいよりも、それは始末に悪い。 川上弘美『ニシノユキヒコの恋と冒険』
【世界のすべてのニシノユキヒコへ】
川柳には、膝ポン川柳というのがあって、あ、なるほど! と読者におもわせて膝をぽん!とたたいてしまうような川柳を膝ポン川柳といいます(穂村弘さん風にいうならば、なるほど短歌、という感じかもしれません)。
で、じぶんのなかでいま流行っているのが、膝ドン川柳で、これは、ドン! という衝撃とともに、立てなくなってしまうような川柳。ひざからそのままくずれおちてしまうような川柳。これをわたしはかってに、膝ドン川柳と呼んでいます。
で、久保田さんのこの句が、わたしにとっての、膝ドン、になります。
この久保田さんの句は、たとえば俳句からこんなふうにかんがえてみてもいいかもしれません。
屠蘇散や夫は他人なので好き 池田澄子
もしくは、なぜ、川上弘美の『ニシノユキヒコの恋と冒険』という時空を超える恋愛小説が、「ニシノユキヒコ」という〈他人〉のようなカタカナ表記をされているのか、といったことからかんがえるのも、ありかもしれません。
もしくはもういちど俳句から、恋を失ったときに、それでもなにかの不気味な残滓と可能性が底の底の深い場所からわいてくる次のような句の〈その他もろもろ〉の可能性からかんがえてみてもいいかもしれません。
失恋やその他もろもろ根深汁 今野浮儚
これらすべてには、ひととつながりあうこと、ひととつながりあえなかったことが、どのようなかたちで〈ことば〉として浮かんでくるかが、描かれているようにもおもうんです。
この前に書いた櫛木千尋さんの記事でも書いたんですが、十全な意思疎通がかならずしもひとにとって十全なつながりあいになるとは限りません。
ひととつながりあうっていうことは、そのひとをある意味、自分化し、侵食していくことともつながっている。
たとえば、コミュニケーションっていうのは、意思疎通と訳されたりもしますが、実は、相手の同意をそれとなく支配してしまうことも含んでいたりします。
暗黙に、こうだよねこうでしょ、と従わせてしまうこと。それが、コミュニケーションです。
コミュニケーションというのは、じつは相手を支配してしまっている状態、従わせてしまっているという状態、というリスキーな部分も、ある。
じゃあ、どうする、のか。
あいてが〈他人〉だということを、どこまでも認めつづけることしかありません。なんども、なんどでも、あいてが〈他人〉として浮上してくること。
そして、それにむかいあうこと。
なんども〈他人〉としてでむかえること。
親でも、兄弟でも、両思いのひとでも、恋人でも、家族でも、こころの友でも、ジャイアンでも、じぶんでも、隣の席のおとこのこ/おんなのこでも、文通相手でも。
いかに相手との、相手へのなだれこんでゆかざるをえないアクセスを、そのつどそのつどきちんとじぶんなりのやりかたでカットできるかに、あいてとずっとつながってゆける秘訣が、ある。
そんなふうにも、おもうんですね。
サン=テグジュペリの『星の王子さま』で、キツネが「大事なことは目にはみえないんだ」と王子にいう有名なことばがありますが、これも、たとえば、むしろ、「見てはいけないものがある」「見たつもりになるんではなく他人のままにしておかなければならないんだ」という意味合いもふくんでいるようにも、おもうんです。
いかに親しい相手を〈他人〉でいさせられるか、のスキル。
それが、わたしはじつは、〈恋〉から〈愛〉の昇華の過程にもあるのではないか、とおもったりもします。
〈恋〉は、「最後から二番目の恋」などと〈数えられ〉たりもするように、〈いちどきり〉だったりしかしない〈数詞〉かもしれませんが(初恋!)、〈初愛〉などということばがないように、〈愛〉はなんどでもやってくるのです。〈他人なので好き!〉という親しいひとへのかたちをとって。
だから、なんどでも、愛するひとを、森に返す。他人にするために。
鐘が、鳴る。
くじらを森に返す時間だ鐘が鳴る 内田真理子
西野くんは冷たい。そして、その冷たさは、あたたかな裏打ちを持っている。すっかり冷たいよりも、それは始末に悪い。 川上弘美『ニシノユキヒコの恋と冒険』
【世界のすべてのニシノユキヒコへ】
川柳には、膝ポン川柳というのがあって、あ、なるほど! と読者におもわせて膝をぽん!とたたいてしまうような川柳を膝ポン川柳といいます(穂村弘さん風にいうならば、なるほど短歌、という感じかもしれません)。
で、じぶんのなかでいま流行っているのが、膝ドン川柳で、これは、ドン! という衝撃とともに、立てなくなってしまうような川柳。ひざからそのままくずれおちてしまうような川柳。これをわたしはかってに、膝ドン川柳と呼んでいます。
で、久保田さんのこの句が、わたしにとっての、膝ドン、になります。
この久保田さんの句は、たとえば俳句からこんなふうにかんがえてみてもいいかもしれません。
屠蘇散や夫は他人なので好き 池田澄子
もしくは、なぜ、川上弘美の『ニシノユキヒコの恋と冒険』という時空を超える恋愛小説が、「ニシノユキヒコ」という〈他人〉のようなカタカナ表記をされているのか、といったことからかんがえるのも、ありかもしれません。
もしくはもういちど俳句から、恋を失ったときに、それでもなにかの不気味な残滓と可能性が底の底の深い場所からわいてくる次のような句の〈その他もろもろ〉の可能性からかんがえてみてもいいかもしれません。
失恋やその他もろもろ根深汁 今野浮儚
これらすべてには、ひととつながりあうこと、ひととつながりあえなかったことが、どのようなかたちで〈ことば〉として浮かんでくるかが、描かれているようにもおもうんです。
この前に書いた櫛木千尋さんの記事でも書いたんですが、十全な意思疎通がかならずしもひとにとって十全なつながりあいになるとは限りません。
ひととつながりあうっていうことは、そのひとをある意味、自分化し、侵食していくことともつながっている。
たとえば、コミュニケーションっていうのは、意思疎通と訳されたりもしますが、実は、相手の同意をそれとなく支配してしまうことも含んでいたりします。
暗黙に、こうだよねこうでしょ、と従わせてしまうこと。それが、コミュニケーションです。
コミュニケーションというのは、じつは相手を支配してしまっている状態、従わせてしまっているという状態、というリスキーな部分も、ある。
じゃあ、どうする、のか。
あいてが〈他人〉だということを、どこまでも認めつづけることしかありません。なんども、なんどでも、あいてが〈他人〉として浮上してくること。
そして、それにむかいあうこと。
なんども〈他人〉としてでむかえること。
親でも、兄弟でも、両思いのひとでも、恋人でも、家族でも、こころの友でも、ジャイアンでも、じぶんでも、隣の席のおとこのこ/おんなのこでも、文通相手でも。
いかに相手との、相手へのなだれこんでゆかざるをえないアクセスを、そのつどそのつどきちんとじぶんなりのやりかたでカットできるかに、あいてとずっとつながってゆける秘訣が、ある。
そんなふうにも、おもうんですね。
サン=テグジュペリの『星の王子さま』で、キツネが「大事なことは目にはみえないんだ」と王子にいう有名なことばがありますが、これも、たとえば、むしろ、「見てはいけないものがある」「見たつもりになるんではなく他人のままにしておかなければならないんだ」という意味合いもふくんでいるようにも、おもうんです。
いかに親しい相手を〈他人〉でいさせられるか、のスキル。
それが、わたしはじつは、〈恋〉から〈愛〉の昇華の過程にもあるのではないか、とおもったりもします。
〈恋〉は、「最後から二番目の恋」などと〈数えられ〉たりもするように、〈いちどきり〉だったりしかしない〈数詞〉かもしれませんが(初恋!)、〈初愛〉などということばがないように、〈愛〉はなんどでもやってくるのです。〈他人なので好き!〉という親しいひとへのかたちをとって。
だから、なんどでも、愛するひとを、森に返す。他人にするために。
鐘が、鳴る。
くじらを森に返す時間だ鐘が鳴る 内田真理子
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の短詩型まとめ