【感想】夏ゆふべドンキホーテで鞭を買ふ 西原天気
- 2015/02/02
- 06:00
夏ゆふべドンキホーテで鞭を買ふ 西原天気
【そうだドンキホーテ行こう(そうだ鞭買おう)】
以前、句を生きるってどういうことなんだろう、っていう話になったときに、わたしは、
西原さんの夏ゆふべドンキホーテで鞭を買ふ
の句のように、じっさいにドンキホーテに行って鞭を買ってみたいとおもうことがあるんです、
と話したら、その場がしんとなってしまって、こりゃまずったかな、とおもって、そんなに高い鞭じゃなくていいんです、そこらへんにボックスセールで売ってるような鞭だっていいんだ、とつけくわえることによって、なんとかわたしはわたしをごまかしたんですが、
でも、句を生きる、っていうのは、どこかわたしに誘いかけてくる句、たとえば西原さんの句でいえば、あれそういえばなんとなくいつもドンキホーテを素通りしていたんだけれども、そういえばドンキホーテってどういう場所だったんだっけ、とかんがえさせるような句じゃないかとおもうんですよね。
で、わたしはこの句がとてもすきなんですが、西原さんのこの句には、こんな別バージョンがあります。
秋深しドンキホーテで紐を買ふ 西原天気
この別バージョンがあることによって、この句では、〈生きられる時間〉が生まれています。
「夏ゆふべ」から「秋深し」のあいだの、「秋深し」から「夏ゆふべ」のあいだの、この句が志向しつづけようとしてる〈ドンキホーテの時間〉がある。
鞭から紐へ、紐から鞭への買うものは変わってゆくという差異がありますが、わたしはこの変化は、モノの変化というよりも、〈関係〉の変化のようにもおもうのです(なぜなら、SM的関係を想起する鞭や紐は、おそらく対自的存在ではなく、対他的存在であるものだから)。
だから、この西原さんのドンキホーテの句は、時間と関係の変化を詠んでいる句なのではないかとおもうのです。
で、そのようなわたしがあれこれおもいめぐらしているのとはべつに、ドンキホーテに入って、夏の宵に鞭を買ったらどんなきぶんになるんだろう、秋のいちばん深い場所で紐を買ったらどんな感慨をいだくんだろう、とずっとおもっているじぶんが、いる。
ながなが話しすぎてしまいましたが、わたしはそんなふうにおもっているんです。
そういって、わたしは話をやめて、着席したんです。
やっぱり、まわりはしんとしずまりかえって、わたしもわたしでさいしょにおもったように、ふたたび、あららまずったかな、とおもったのだけれども、でもやっぱり句を生きるってわたしにとってそういうことかもしれないな、とおもい、わたしは、もうすこし深く椅子にこしかけたのです。びいいいん、とひきしまったしずけさのなかで。わたしの、わたしだけの、しかしいつかどこかとんでもない外部(ところ)につながっていくかもしれないひきだしのなかで。
ひきだしの数とバッタの数おなじ 西原天気
【そうだドンキホーテ行こう(そうだ鞭買おう)】
以前、句を生きるってどういうことなんだろう、っていう話になったときに、わたしは、
西原さんの夏ゆふべドンキホーテで鞭を買ふ
の句のように、じっさいにドンキホーテに行って鞭を買ってみたいとおもうことがあるんです、
と話したら、その場がしんとなってしまって、こりゃまずったかな、とおもって、そんなに高い鞭じゃなくていいんです、そこらへんにボックスセールで売ってるような鞭だっていいんだ、とつけくわえることによって、なんとかわたしはわたしをごまかしたんですが、
でも、句を生きる、っていうのは、どこかわたしに誘いかけてくる句、たとえば西原さんの句でいえば、あれそういえばなんとなくいつもドンキホーテを素通りしていたんだけれども、そういえばドンキホーテってどういう場所だったんだっけ、とかんがえさせるような句じゃないかとおもうんですよね。
で、わたしはこの句がとてもすきなんですが、西原さんのこの句には、こんな別バージョンがあります。
秋深しドンキホーテで紐を買ふ 西原天気
この別バージョンがあることによって、この句では、〈生きられる時間〉が生まれています。
「夏ゆふべ」から「秋深し」のあいだの、「秋深し」から「夏ゆふべ」のあいだの、この句が志向しつづけようとしてる〈ドンキホーテの時間〉がある。
鞭から紐へ、紐から鞭への買うものは変わってゆくという差異がありますが、わたしはこの変化は、モノの変化というよりも、〈関係〉の変化のようにもおもうのです(なぜなら、SM的関係を想起する鞭や紐は、おそらく対自的存在ではなく、対他的存在であるものだから)。
だから、この西原さんのドンキホーテの句は、時間と関係の変化を詠んでいる句なのではないかとおもうのです。
で、そのようなわたしがあれこれおもいめぐらしているのとはべつに、ドンキホーテに入って、夏の宵に鞭を買ったらどんなきぶんになるんだろう、秋のいちばん深い場所で紐を買ったらどんな感慨をいだくんだろう、とずっとおもっているじぶんが、いる。
ながなが話しすぎてしまいましたが、わたしはそんなふうにおもっているんです。
そういって、わたしは話をやめて、着席したんです。
やっぱり、まわりはしんとしずまりかえって、わたしもわたしでさいしょにおもったように、ふたたび、あららまずったかな、とおもったのだけれども、でもやっぱり句を生きるってわたしにとってそういうことかもしれないな、とおもい、わたしは、もうすこし深く椅子にこしかけたのです。びいいいん、とひきしまったしずけさのなかで。わたしの、わたしだけの、しかしいつかどこかとんでもない外部(ところ)につながっていくかもしれないひきだしのなかで。
ひきだしの数とバッタの数おなじ 西原天気
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