【お知らせ】「夢八夜 第一夜 マヨネーズの床」『アパートメント』
- 2015/02/04
- 20:18
WEBマガジン『アパートメント』にて連載『夢八夜』第一回目の「 第一夜 マヨネーズの床」という掌編を載せていただきました。
もしお時間のあるときにお読みいただければ、さいわいです。
わたしのレビューを担当してくださった朝弘佳央理さんが「内田百閒の『冥途』の景色をあたまの隅に浮かべながら読み進めた」と書いてくださったんですが、「第一夜」は裏テーマとして〈内田百閒〉を念頭においていて、『冥途』や『東京日記』がずっとイメージとして頭にあったので朝弘さんにそういっていただけてすごくうれしくおもいました。
朝弘さんには、『アパートメント』のフェイスブックで以下のように書いていただきました。ありがとうございました!
「高い、大きな、暗い土手が、何処から何処へ行くのか解らない、静かに、冷たく、夜の中を走っている。」
内田百閒の『冥途』の景色をあたまの一方に浮かべながら読み進めたのは、夢からはじまり、そして夢で締めくくられているからだろうか。(十代のころ初めて読んだ『それから』も、私にとっては現実の中で淡い霧を進むようなおはなしだったから)
霞に包まれた、海とも草原とも夜とも明け方ともつかない場所でのものがたりを、つい、返そうかと思った。
首のうしろで吹き消して、一杯の水を飲んだ。
わたしにとって百閒の幻想小説というのはいつも〈わからない〉ということがドラマになっているのですが、今回、引用させていただいた荻原裕幸さんの俳句は〈気づき〉そのものがドラマになっている句じゃないかな、と前からおもっていまして、その〈わからない〉ことと〈わかる〉ことの磁場のなかで〈ゆめ〉が生まれないかなというのが「第一夜」の〈雰囲気〉になっています(ちなみに漱石『夢十夜』の「第一夜」も、「死にます」といった女ともう一度再会できたかどうなのかが〈わからない〉けれど、でもその〈わからない〉なかでなにかを〈わかっ〉てしまった男の物語にもなっているとおもいます)。
荻原裕幸さんは、短歌だけでなく、川柳・俳句・評論・シンポジウムと、ジャンルを横断しながらも、そのジャンル性にとらわれない活動をされている方だと思っていて、いつもジャンルとジャンルの結び目をかんがえることをわたしは荻原さんから学んでいるのですが、それってジャンルとジャンルを溶きあわせながらもあたらしいジャンルをかんがえていこうとする〈思想/実践としてのマヨネーズ〉なのではないかとおもっていたこともあって、荻原さんとマヨネーズというモチーフが浮かびました。
マヨネーズのように溶解し濃縮し拡散する、自律的なマヨネーズ機械。
『週刊俳句』の倉本朝世さんの感想文では〈終わり〉としてのマヨネーズのことを考えて書いていたのですが、今回は〈はじまり〉としてのマヨネーズです。
次回「第二夜 みどりのひと」は、比喩がそのまま他者としてつながっていくような短詩をつくられている方から展開した〈ゆめ〉です。
わたしはこの方の表現を読んでいると、笹井宏之さんの短歌を思い出すことがあるのですが、この方の短詩も笹井さんの短歌もとうとつにあらわれた比喩が、しかしどこかわたしたちに親密で、わたしたちをそのままどこかにさらっていってしまおうとする。
ずっとその比喩と暮らしていたようでもあり、でもその比喩とはじめて出会ってしまったような他者性・よそもの性がどこまでも、ある。
そのような方から展開されるナチュラルなスターマンの〈ゆめ〉です。還ります。
もしお時間のあるときにお読みいただければ、さいわいです。
わたしのレビューを担当してくださった朝弘佳央理さんが「内田百閒の『冥途』の景色をあたまの隅に浮かべながら読み進めた」と書いてくださったんですが、「第一夜」は裏テーマとして〈内田百閒〉を念頭においていて、『冥途』や『東京日記』がずっとイメージとして頭にあったので朝弘さんにそういっていただけてすごくうれしくおもいました。
朝弘さんには、『アパートメント』のフェイスブックで以下のように書いていただきました。ありがとうございました!
「高い、大きな、暗い土手が、何処から何処へ行くのか解らない、静かに、冷たく、夜の中を走っている。」
内田百閒の『冥途』の景色をあたまの一方に浮かべながら読み進めたのは、夢からはじまり、そして夢で締めくくられているからだろうか。(十代のころ初めて読んだ『それから』も、私にとっては現実の中で淡い霧を進むようなおはなしだったから)
霞に包まれた、海とも草原とも夜とも明け方ともつかない場所でのものがたりを、つい、返そうかと思った。
首のうしろで吹き消して、一杯の水を飲んだ。
わたしにとって百閒の幻想小説というのはいつも〈わからない〉ということがドラマになっているのですが、今回、引用させていただいた荻原裕幸さんの俳句は〈気づき〉そのものがドラマになっている句じゃないかな、と前からおもっていまして、その〈わからない〉ことと〈わかる〉ことの磁場のなかで〈ゆめ〉が生まれないかなというのが「第一夜」の〈雰囲気〉になっています(ちなみに漱石『夢十夜』の「第一夜」も、「死にます」といった女ともう一度再会できたかどうなのかが〈わからない〉けれど、でもその〈わからない〉なかでなにかを〈わかっ〉てしまった男の物語にもなっているとおもいます)。
荻原裕幸さんは、短歌だけでなく、川柳・俳句・評論・シンポジウムと、ジャンルを横断しながらも、そのジャンル性にとらわれない活動をされている方だと思っていて、いつもジャンルとジャンルの結び目をかんがえることをわたしは荻原さんから学んでいるのですが、それってジャンルとジャンルを溶きあわせながらもあたらしいジャンルをかんがえていこうとする〈思想/実践としてのマヨネーズ〉なのではないかとおもっていたこともあって、荻原さんとマヨネーズというモチーフが浮かびました。
マヨネーズのように溶解し濃縮し拡散する、自律的なマヨネーズ機械。
『週刊俳句』の倉本朝世さんの感想文では〈終わり〉としてのマヨネーズのことを考えて書いていたのですが、今回は〈はじまり〉としてのマヨネーズです。
次回「第二夜 みどりのひと」は、比喩がそのまま他者としてつながっていくような短詩をつくられている方から展開した〈ゆめ〉です。
わたしはこの方の表現を読んでいると、笹井宏之さんの短歌を思い出すことがあるのですが、この方の短詩も笹井さんの短歌もとうとつにあらわれた比喩が、しかしどこかわたしたちに親密で、わたしたちをそのままどこかにさらっていってしまおうとする。
ずっとその比喩と暮らしていたようでもあり、でもその比喩とはじめて出会ってしまったような他者性・よそもの性がどこまでも、ある。
そのような方から展開されるナチュラルなスターマンの〈ゆめ〉です。還ります。
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々のお知らせ