【感想】ひきずることの可能性を、さぐる。-NO DRAGGING、NO LIFE-
- 2015/02/05
- 06:00
ライナスの行進 海をひきずって 江口ちかる
【ひきずるって、たのしいこと。】
短詩のなかで〈ひきずる〉行為について以前から興味があって、じぶんじしんがいろいろなものをひきずりながらふだんあるいているからだとおもうんですが、たとえばスヌーピーの毛布を手放さないライナスがそれを〈手放さない〉ではなく〈ひきずる〉という動詞を与えたというときに、あるかれの桎梏として浮かび上がってくるわけです。
それぞれの鎖ひきずり桜の園 徳弘純
とするような、徳弘さんの句のように、めいめいが鎖を背負いながらスヌーピーの世界ではキャラクターたちが、いる。
考えてみるとスヌーピーでは〈男性陣〉は漱石の小説では男性がみんな〈神経衰弱〉であるように、ピーナッツのキャラクターはみんな桎梏を抱えている(だからその意味で、スヌーピーはチェーホフにもつながっていく)。
たとえばスヌーピー自身は〈書く〉ことにとらわれタイプライターに桎梏され、シュローダーはベートーヴェンに執念を燃やしピアノに桎梏される。
チャーリー・ブラウンはじぶんでじぶんを桎梏し、正岡子規のようなベッドの〈病床六尺〉にいます。
だから、ライナスにとって、もふもふの毛布は、かれのソフト・シェルター(やわらかい鎧)であるとどうじに、かれを縛り付けている桎梏でもある(クリスマスキャロルの罪を背負い込んだ亡霊ジェイコブ・マーレイのように)。
ところが、それを書き換えたのが、江口さんのうえの句ではないかとおもうのです。
〈ひきずる〉ことはたしかに桎梏かもしれない。囚われ、かもしれない。
でも、それは、「海を」とあらわされているように、ある、同時遂行的な運動の所作でもある。
「ひきずる」という動詞は、つねに「~をひきずる」という対象Xとともに使われます。ただひとは、わけもなく、ひきずることはできない。ひきずるのは、つねに、なにか、です。
でも、だからこそ、そのXは置換できる。
たとえば、過去《を》ひきずっているひとがいるとします。
でも、その過去というXを未来に置換することもできる。未来をひきずってあるく。
それが、じつは、〈ひきずる〉という動詞の可能性なのではないかとおもうのです。
ひとは、いろんなことを、まだ起きていないことや、一生かかっても把握できないものさえ(たとえば、海)ひきずることが、できる。
それが、ひきずることのダイナミックな可能性です。
ひきずることのダイナミックな可能性は、たとえばつぎのようなうたにも、あらわれています。
原っぱに右手左手やってきて足をひきずりまわして遊ぶ 吉岡太朗
ひきずる行為がズームアップされることによって、〈誰が〉ひきずるかではなく、〈なにを〉ひきずるかが問われる身体のユートピアのような世界です。
たとえばかつて誰かをやさしくひきずっていたときのことを、あるいはゆっくりとひきずられていたときのことを思い出してもらうといいかもしれないともおもうんですが、ひきずるという行為は身体の発見でもあるわけです。ひきずることのできる身体の部位はかぎられているので。
そういえば、でも、ひきずられた思い出をおもいださなくても、わりと、意図的に、ひきずっているものが、ありますよね。
雨の日なんかに。
ステッキみたいにして。
ミュージカルじたてにしたりなんかして。
この世界では、あの、傘、というもの。
迷宮をかすんかすんと逃げてゆけ 傘もあしたもひきずりながら 増田静
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