【短歌】すきなひとの…(「第83回 短歌ください(お題:お酒)穂村弘 選」『ダ・ヴィンチ』2015年3月号)
- 2015/02/06
- 12:00
すきなひとのすきなひとのはなしをきいている そのすきなひとにもすきなひとがいる 柳本々々
(「第83回 短歌ください(お題:お酒)穂村弘 選」『ダ・ヴィンチ』2015年3月号)
【すきなひとのすきなひとのすきなひとのすきなひとに、逢う】
「すきなひと連鎖の飲み会です。だれも両思いは、いない」との作者コメントあり。誰もが片思い。なんだか人類愛に繋がりそうな切なさを感じます。
選者の穂村弘さんから上記のコメントをいただきました。ありがとうございました!
恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死 穂村弘
穂村さんの有名なこんな恋人の歌があって、以前、このブログで感想文を書いたこともあるんですが、あらためてもういちどこの短歌をみたときに、これって〈どこにもたどりつくことのなかった一方通行の恋と死〉を歌ったものだったのではないか、とおもったのです。
大事なのは、短歌というその速度とベクトルです。
恋人の、と発話したとき、短歌においてはもう次に右に(下に)進んでいくしかないわけです。
短歌は、不可逆です。いちどなにかを発話しはじめたらもうあともどりはできない。
くりかえしても、だめなのです。くりかえしは、リフレインというレトリックになってしまう。くりかえしは、短歌においては、くりかえしではない。それは、意味をさらに加えることなのです。
だから、短歌は、はしりはじめたら、もうはしりぬけるしかない。そして、はしりぬけたら、はしりはじめた地点にはもうもどれない。
短歌はくりかえしくちに唱えることができるけれど、そのつど、意味は、以前の意味とは、ちがったものに、まさにこの歌の〈恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死〉のように、とおく・一方向的に・離れたものになっていってしまう。
だからこの穂村さんの短歌は、短歌の仕組みそのもをうたった短歌、メタ短歌=超短歌なのではないかとおもうのです。
短歌は、一方向的な思いしか、のせられない。
だけれども、そうした一回だけ走り抜けられる〈片思い〉だからこそ、一回だけ語れる〈思い〉が発現する。
だから、こういえるのではないかと、おもうのです。
短歌には、その形式性ゆえに、〈片思い〉しか存在しないのだ、と。
観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ) 栗木京子
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