【感想】歩いても歩いても-リカちゃん、八上桐子、岡崎京子、穂村弘、バービー人形-
- 2015/02/10
- 08:00
歩いたことないリカちゃんのふくらはぎ 八上桐子
【歩けなくても歩けなくても】
『川柳スープレックス』の記事において飯島章友さんが「リカちゃんは歩いたことがないのだと〈再認識〉することによって、奇しくもリカちゃん人形の「ふくらはぎ」に生命の相を与えている」と指摘されている(歩いたことないリカちゃんのふくらはぎ 八上桐子 )。
そのとき思い出したのが、リカちゃんのアメリカ版でもあるバービー人形のこんな言説である。
1959年に誕生したバービー人形は、理想の白人女性の身体イメージを少女たちに植えつけてきた。だが、バービー人形は最高の身体パーツの集合でできた完璧なプロポーションゆえに、もし人間として存在すれば、立つこともできないフランケンシュタインの怪物である。バービーに近づくためにはたえず身体矯正が必要だ。整形手術の発展とバービー人形の歴史は連動している。バービーは造られる人形ではなく、じつは女を造る人形である。 西山智則『恐怖の君臨』
要約すれば、リカちゃんもバービー人形も〈歩くための身体〉ではなく、時代のニーズに合わせて、というよりも極端に先取りして、改造しつづける〈見せる=魅せる身体〉なのだということなのではないかと思う。
いいかえれば、〈果てのない〉身体だということでもある。
こんな身体を〈女の子のひとりの堕ちる=墜ちる生〉として描いた漫画家がいる。
岡崎京子の『ヘルタースケルター』だ。
アイデンティティのちょうじりを合わせるために身体改造をつづけることが、ぎゃくにアイデンティティをがたがたにしていく。そのがたがたが加速され、さらに身体は改造されモンスター化していく。
けれども、そのモンスターに〈生きるたくましさ〉を感じる〈女の子〉の物語。
短歌では、リカちゃんやバービー人形はどうなっているのだろう。こんな短歌が、ある。
バービーかリカちゃんだろう鍵穴にあたまから突き刺さってるのは 穂村弘
穂村さんのこの短歌は、偶然だが、しかし必然的に、八上さんの句とひびきあっている。
八上さんの句では、飯島さんが指摘したように、脱-身体的なリカちゃんの身体な描かれていたが、この穂村さんの歌においても、「バービーかリカちゃん」は「鍵穴にあたまから突き刺さってる」。
それは八上さんの句がそのままこのうたの解説になってしまうように、「歩いたことない」からであり、身体はつねに理想的な身体に向けられた〈奉仕する身体〉だからだ。
だから、なにかの・ための・鍵としての身体、なのである。それは、フランケンシュタイン博士がつくったモンスターのようにいびつでギザギザの、アイデンティティのちょうじりがあわせられない、しかし言語的な(みんなが語る)身体である。
じゃあ、どうしたら、リカちゃんやバービーや『ヘルタースケルター』のりりこは、〈歩ける〉ようになるのか。
それは、リミットとしての〈境界線〉をひいてもらうことだ。たぷたぷするための。身体も、ひいては身体から精神も拘束具をはずし、たぷたぷすること。波間にゆらぐように。
だから、川柳からは、次のような句が処方される。
枠線を引いてもらってたぷたぷする 久保田紺
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