【感想】膝に鞄をのせて知らせを待っているあなた方みな選別される 加藤治郎
- 2015/02/10
- 08:30
膝に鞄をのせて知らせを待っているあなた方みな選別される 加藤治郎
【わたしたちみな選別される】
自分にとっての治郎さんの短歌の魅力がすくなくともわたしにはふたつあって、ひとつは以前書いたように〈巨大な言語的幼児性〉です。
このいい意味での既存の言語文法を破壊するような〈幼児性〉を定型だけが支えてる。これがひとつ凄く魅力的にかんじている部分です。誤解されるかもしれないのでいそいで少し説明すると、〈理性〉が届かないことばの使い方で短歌を詠んでいる。それが〈言語的幼児性〉です。短歌だけが支えられる過激な〈言語的幼児性〉。これは実は治郎さんが短歌で〈発明〉したものなんじゃないかとおもってるくらいです。
ふたつめが、その〈幼児性〉とも通じているとおもうんですが、〈冷徹さ〉です。ドライ、といえばいいのか。
〈幼児性〉であるということは、通念や社会的枠組みが不在であるということでもあるので、ふっとリアリズムの認識がでてくる。
幼児性=ハイパーリアリズムが、現実性=リアリズムに通じている。
これが、すごく魅力的だとおもってるんです。
で、うえの治郎さんの歌はすごく印象的で、面接をするたびによく思い出していた歌なんですが、ドライな歌なので、すこしドライに読んでみると、出だしの初句が5音じゃなくて、7音になってるんですよね。はみ出すことからはじまっている。で、あとはきっちり定型がまもられます。
この〈はみだし〉っていうのは、「膝に鞄をのせて」と響きあっているとおもうんです。というよりも、定型が反応している。
選別と書いてありますから、どのような状況であれ、みずからが選ばれるか・どうなのかを待っているわけです。膝に鞄をのせて。非常に不安な、よりどころのない状態で。
それが7音のあふれるかたちであらわれている。膝に鞄をのせて、というのもかんがえてみると通常の状態ではない。どこかに行こうとするときはひとは鞄をさげて歩きます。どこかに行くために。だから、どこにも行けないひとたちなんです。鞄をひざにのせるときは、鞄のなかみをさがすときですが、かばんのなかみに答えはない。なぜなら、選ぶか・選ばないかの審急は、〈選別者〉がもっているから。
あとですね、「あなた方」という呼称もドライです。
語り手は、「あなた方」と相手とつかずはなれずの呼びかけを選んでいる以上、「あなた方」のサイドではなく、〈こちら側〉にいるわけです。
しかも、ひとりひとりではなく、「あなた方」が「あなた方みな」と〈集合的〉にしかみえないような〈こちら側〉にいる。ひとりひとりと向き合う対他関係ではない。それがこの「あなた方」という呼称にあらわれています。
でもこうしたドライな短歌がある一方で、〈言語的な幼児性〉を探究する次のような短歌がでてくる。
それが、治郎さんの短歌のひとつの魅力であり、奥深さじゃないかとおもっています。
ドライさと、いままで使われたこともないような文法がそのつど見いだされる〈言語的幼児性〉。つまり、
だったよな抱いてだいて抱いてだいてパイン畑のなかの打楽器 加藤治郎
【わたしたちみな選別される】
自分にとっての治郎さんの短歌の魅力がすくなくともわたしにはふたつあって、ひとつは以前書いたように〈巨大な言語的幼児性〉です。
このいい意味での既存の言語文法を破壊するような〈幼児性〉を定型だけが支えてる。これがひとつ凄く魅力的にかんじている部分です。誤解されるかもしれないのでいそいで少し説明すると、〈理性〉が届かないことばの使い方で短歌を詠んでいる。それが〈言語的幼児性〉です。短歌だけが支えられる過激な〈言語的幼児性〉。これは実は治郎さんが短歌で〈発明〉したものなんじゃないかとおもってるくらいです。
ふたつめが、その〈幼児性〉とも通じているとおもうんですが、〈冷徹さ〉です。ドライ、といえばいいのか。
〈幼児性〉であるということは、通念や社会的枠組みが不在であるということでもあるので、ふっとリアリズムの認識がでてくる。
幼児性=ハイパーリアリズムが、現実性=リアリズムに通じている。
これが、すごく魅力的だとおもってるんです。
で、うえの治郎さんの歌はすごく印象的で、面接をするたびによく思い出していた歌なんですが、ドライな歌なので、すこしドライに読んでみると、出だしの初句が5音じゃなくて、7音になってるんですよね。はみ出すことからはじまっている。で、あとはきっちり定型がまもられます。
この〈はみだし〉っていうのは、「膝に鞄をのせて」と響きあっているとおもうんです。というよりも、定型が反応している。
選別と書いてありますから、どのような状況であれ、みずからが選ばれるか・どうなのかを待っているわけです。膝に鞄をのせて。非常に不安な、よりどころのない状態で。
それが7音のあふれるかたちであらわれている。膝に鞄をのせて、というのもかんがえてみると通常の状態ではない。どこかに行こうとするときはひとは鞄をさげて歩きます。どこかに行くために。だから、どこにも行けないひとたちなんです。鞄をひざにのせるときは、鞄のなかみをさがすときですが、かばんのなかみに答えはない。なぜなら、選ぶか・選ばないかの審急は、〈選別者〉がもっているから。
あとですね、「あなた方」という呼称もドライです。
語り手は、「あなた方」と相手とつかずはなれずの呼びかけを選んでいる以上、「あなた方」のサイドではなく、〈こちら側〉にいるわけです。
しかも、ひとりひとりではなく、「あなた方」が「あなた方みな」と〈集合的〉にしかみえないような〈こちら側〉にいる。ひとりひとりと向き合う対他関係ではない。それがこの「あなた方」という呼称にあらわれています。
でもこうしたドライな短歌がある一方で、〈言語的な幼児性〉を探究する次のような短歌がでてくる。
それが、治郎さんの短歌のひとつの魅力であり、奥深さじゃないかとおもっています。
ドライさと、いままで使われたこともないような文法がそのつど見いだされる〈言語的幼児性〉。つまり、
だったよな抱いてだいて抱いてだいてパイン畑のなかの打楽器 加藤治郎
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