【感想】僕たちは他人だ出会い子を育てお茶を淹れあうだけの他人だ 泳二
- 2015/02/10
- 20:23
僕たちは他人だ出会い子を育てお茶を淹れあうだけの他人だ 泳二
【すごく好き。以後】
ときどき思うんですけど、〈関係〉って不可逆なんですよ。
どんなささいな関係であれ、それは〈関係〉であり、ひいては不可逆の〈関係〉なんですよ。
『昼顔 平日午後3時の恋人たち』っていう社会現象にもなった〈主婦〉と〈不倫〉をめぐるドラマがあったけれど、〈不倫〉をめぐるドラマっていうのは、これからどうなるか・どうするかをめぐるドラマ=葛藤というよりは、いかに〈不可逆の関係〉にじぶんが立ち向かうかをめぐるドラマ=葛藤だとおもうんですね。
だから、なかなか上戸彩は「好き。ぜんぶ好き。すごく好き」ということばが不倫相手の斎藤工にいえなかったわけです。それをいってしまうと、言語上でも〈不可逆の関係〉をひきうけなければならなくなるので。つまり、身体のたたかいじゃなくて、言語レベルのたたかいになっていくわけです。いちどそれを口にしてしまえば。
言語レベルのたたかいになるとどうなるかというと、基本的に意味に果てはないので、意味のリミットのない場所での記号論になります。記号論というのは、意味が決定できない場所で意味の解釈をそれでもしていく行為ですから、だんだんと〈不倫〉は言語の消耗戦になってきます。だから、ドラマ『昼顔』も上戸彩が不倫相手の斎藤工に「好き」といえたときに、終局にいそいで向かっていかざるをえなかったわけです。
そしてじつは言語で詠う短歌もそうした言語上の不可逆のたたかいをいつもひきうけているのではのないかとおもうのです。
不可逆をひきうけるとは、どういうことか。
それは、泳二さんの短歌のように「他人」とあらためて口に出し、ひきうけることです。
言語化することで、ひきうけること。ぎゃくに、愛に解消しないで、「他人」ということばによってひきうけることです。
「他人だ」とこの歌では二回繰り返されていることに注意してみたいとおもいます。
いちどめは、「僕たちは他人だ」といっています。
この意味においては、実は「僕たち」と主語で集合化されているので、「他人だ」とは語り手も思い切れていないとおもいます。
だからこそ、もういちど、じぶんじしんの「他人だ」をおなじ短歌テクスト内で読み替える。
「出会い子を育てお茶を淹れあうだけの他人だ」と、主語から述語レベルへと「僕たち」を微分化し、ひとり・ひとりの行為のもとで「他人だ」とみずから語りかえています。
ここにこの歌の「他人」の認識があります。
つまり、「他人」とは、たえず、「僕たち」の関係を、ひとり・ひとりの行為へと微分化し、もういちど、仕切り直し、愛しなおす行為です。
そうしたたえず相手に働きかける行為が、「他人」なのです。言語ゲームではなく、言語ゲームをたえず組み換える行為者(エージェント)になること。
最後まで知らないままで済ますのが正解だけどそうはいかない 泳二
【すごく好き。以後】
ときどき思うんですけど、〈関係〉って不可逆なんですよ。
どんなささいな関係であれ、それは〈関係〉であり、ひいては不可逆の〈関係〉なんですよ。
『昼顔 平日午後3時の恋人たち』っていう社会現象にもなった〈主婦〉と〈不倫〉をめぐるドラマがあったけれど、〈不倫〉をめぐるドラマっていうのは、これからどうなるか・どうするかをめぐるドラマ=葛藤というよりは、いかに〈不可逆の関係〉にじぶんが立ち向かうかをめぐるドラマ=葛藤だとおもうんですね。
だから、なかなか上戸彩は「好き。ぜんぶ好き。すごく好き」ということばが不倫相手の斎藤工にいえなかったわけです。それをいってしまうと、言語上でも〈不可逆の関係〉をひきうけなければならなくなるので。つまり、身体のたたかいじゃなくて、言語レベルのたたかいになっていくわけです。いちどそれを口にしてしまえば。
言語レベルのたたかいになるとどうなるかというと、基本的に意味に果てはないので、意味のリミットのない場所での記号論になります。記号論というのは、意味が決定できない場所で意味の解釈をそれでもしていく行為ですから、だんだんと〈不倫〉は言語の消耗戦になってきます。だから、ドラマ『昼顔』も上戸彩が不倫相手の斎藤工に「好き」といえたときに、終局にいそいで向かっていかざるをえなかったわけです。
そしてじつは言語で詠う短歌もそうした言語上の不可逆のたたかいをいつもひきうけているのではのないかとおもうのです。
不可逆をひきうけるとは、どういうことか。
それは、泳二さんの短歌のように「他人」とあらためて口に出し、ひきうけることです。
言語化することで、ひきうけること。ぎゃくに、愛に解消しないで、「他人」ということばによってひきうけることです。
「他人だ」とこの歌では二回繰り返されていることに注意してみたいとおもいます。
いちどめは、「僕たちは他人だ」といっています。
この意味においては、実は「僕たち」と主語で集合化されているので、「他人だ」とは語り手も思い切れていないとおもいます。
だからこそ、もういちど、じぶんじしんの「他人だ」をおなじ短歌テクスト内で読み替える。
「出会い子を育てお茶を淹れあうだけの他人だ」と、主語から述語レベルへと「僕たち」を微分化し、ひとり・ひとりの行為のもとで「他人だ」とみずから語りかえています。
ここにこの歌の「他人」の認識があります。
つまり、「他人」とは、たえず、「僕たち」の関係を、ひとり・ひとりの行為へと微分化し、もういちど、仕切り直し、愛しなおす行為です。
そうしたたえず相手に働きかける行為が、「他人」なのです。言語ゲームではなく、言語ゲームをたえず組み換える行為者(エージェント)になること。
最後まで知らないままで済ますのが正解だけどそうはいかない 泳二
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の短歌感想