【感想】たつた二人、なのか二人で深いのか家族の闇にすわりつづけぬ 岡井隆
- 2014/05/18
- 20:48
たつた二人、なのか二人で深いのか家族の闇にすわりつづけぬ 岡井隆
【語り手が語り手をそらすー言ってたろ?言ってた!ー】
岡井隆さんの短歌に、「意識+叙述」または「叙述+意識」というような独特の語法があって、以前からずっとその語法のことについてかんがえているんですが、わたしがおもうに岡井隆さんの短歌における語り手は、短歌というその形式の発話中において、叙述を信じ切っていないのではないか、とおもうんですね。
たとえばうえの歌なんですが、「たつた二人、なのか二人で深いのか」という上の句を意識として「家族の闇にすわりつづけぬ」という下の句を叙景と仮にしてみます。結語の助動詞の「ぬ」は一般的に自然的にそうなった、もしくは無意志のままにそうなったことをあらわす完了の助動詞なので語り手が「家族の闇にすわりつづけ」た叙景としてみます。
問題は、上の句だとおもうのです。「たつた二人、なのか二人で深いのか」というゆれる語り手の叙述に対する意識は、「家族」や「闇」そのものの内実を脱臼させています。語り手は「家族」や「闇」といった名詞を使いつつも、「たつた二人」か「深い」二人かの決定的な両極において記号的に埋め尽くすことができないでします。つまり、この叙述は未然の完了された叙景として成立しているとでもいえるのではないでしょうか。
ほかにも、岡井隆さんの「叙述+意識」の語法のうたの例をみています。
革命にむかふ青春のあをい花ほんとに咲いてゐたんだつてば
つきの光に花梨(くわりん)が青く垂れてゐる。ずるいなあ先に時が満ちてて
「革命にむかふ青春のあをい花」という上の句の叙述に対する「ほんとに咲いてゐたんだつてば」という下の句における語り手の意識。「つきの光に花梨が青く垂れてゐる」という上の句の叙述に対する「ずるいなあ先に時が満ちてて」という下の句の語り手の意識。
「ほんとに咲いてゐたんだつてば」と〈あえて〉発話することは逆説的に語り手が叙述を信じ切れていない、または聞き手に対して確信させられるだけの言説を所持できていないことを露呈するし、「ずるいなあ先に時が満ちてて」という意識は、「花梨が青く垂れてゐる」のを「ずるい」かどうかのレベルで言説化する語り手の意識は、わたしたちが判断できる叙景のレベルを超えて、語り手が内在的に先取りしている情報でみないとこの短歌の叙景はみえてこないという、やはりシンプルな叙景の公式をうちくずしているようにおもいます。
こんなふうに岡井隆さんの短歌では、語り手が発話しつつもその発話内容を語法からつきくずしているといった興味深い現象が言説レベルでおこなわれているようにおもいます。
大島には連絡すると言つてたろ(言つてた)裏庭で今朝冬百舌鳥(ふゆもず)が 岡井隆
【語り手が語り手をそらすー言ってたろ?言ってた!ー】
岡井隆さんの短歌に、「意識+叙述」または「叙述+意識」というような独特の語法があって、以前からずっとその語法のことについてかんがえているんですが、わたしがおもうに岡井隆さんの短歌における語り手は、短歌というその形式の発話中において、叙述を信じ切っていないのではないか、とおもうんですね。
たとえばうえの歌なんですが、「たつた二人、なのか二人で深いのか」という上の句を意識として「家族の闇にすわりつづけぬ」という下の句を叙景と仮にしてみます。結語の助動詞の「ぬ」は一般的に自然的にそうなった、もしくは無意志のままにそうなったことをあらわす完了の助動詞なので語り手が「家族の闇にすわりつづけ」た叙景としてみます。
問題は、上の句だとおもうのです。「たつた二人、なのか二人で深いのか」というゆれる語り手の叙述に対する意識は、「家族」や「闇」そのものの内実を脱臼させています。語り手は「家族」や「闇」といった名詞を使いつつも、「たつた二人」か「深い」二人かの決定的な両極において記号的に埋め尽くすことができないでします。つまり、この叙述は未然の完了された叙景として成立しているとでもいえるのではないでしょうか。
ほかにも、岡井隆さんの「叙述+意識」の語法のうたの例をみています。
革命にむかふ青春のあをい花ほんとに咲いてゐたんだつてば
つきの光に花梨(くわりん)が青く垂れてゐる。ずるいなあ先に時が満ちてて
「革命にむかふ青春のあをい花」という上の句の叙述に対する「ほんとに咲いてゐたんだつてば」という下の句における語り手の意識。「つきの光に花梨が青く垂れてゐる」という上の句の叙述に対する「ずるいなあ先に時が満ちてて」という下の句の語り手の意識。
「ほんとに咲いてゐたんだつてば」と〈あえて〉発話することは逆説的に語り手が叙述を信じ切れていない、または聞き手に対して確信させられるだけの言説を所持できていないことを露呈するし、「ずるいなあ先に時が満ちてて」という意識は、「花梨が青く垂れてゐる」のを「ずるい」かどうかのレベルで言説化する語り手の意識は、わたしたちが判断できる叙景のレベルを超えて、語り手が内在的に先取りしている情報でみないとこの短歌の叙景はみえてこないという、やはりシンプルな叙景の公式をうちくずしているようにおもいます。
こんなふうに岡井隆さんの短歌では、語り手が発話しつつもその発話内容を語法からつきくずしているといった興味深い現象が言説レベルでおこなわれているようにおもいます。
大島には連絡すると言つてたろ(言つてた)裏庭で今朝冬百舌鳥(ふゆもず)が 岡井隆
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