【お知らせ】「夢八夜 第三夜 本屋で鮫じゃんか」『アパートメント』
- 2015/02/18
- 21:07
WEBマガジン『アパートメント』にて連載『夢八夜』第三回目の「第三夜 本屋で鮫じゃんか」という掌編を載せていただきました。
もしお時間のあるときにお読みいただければ、さいわいです。
レビュアーの岡田陽恵さんに次のようなていねいなレビューを書いていただきました。
人間はやり直すことができると説く鮫を読む。
人間は「あったこと」を忘れても「あったこと」はその脳や身体に無意識に刻まれる、ということを思い出した。
話はすこしずれるかもしれないけれど、痴呆症をもつ人がすべて忘れて赤子に戻っても、朝や夜、その息が止まる直前不意に、我に帰るということがある。
痴呆だった親戚のおじいさんもやはりその日の朝、目が覚めて赤子から88歳の男性に帰り、家族と語り合い「戦争から許してもらったんだっぺ」と言い、また眠り、2日後に息を引き取った。
かすれてしまった思い出に、塗り絵をするような今週の柳本さんの夢。
岡田さん、ありがとうございました!
岡田さんが書いてくださったように、じぶんが思ったことやじぶんにあった出来事ってわすれることはないとおもうんですよ。
たとえ、それがうしなわれても、じぶんのなかでは別のかたちをとって、つづいていく。
そういうふうに、うしなわれるものっていうのはなにもないんじゃないかなっておもうのです。
「第三夜」の今回は、西原天気さんの句から展開させていただいたゆめを描いています。
たぶんわたしが自分できちんと俳句の句集を買ったのが、西原天気さんの『句集 けむり』だったとおもうんです。
で、はじめて手にしたとき、とてもびっくりしたんです。
なんていうか、自分が思っていた俳句のイメージがそこにはなくて、そこにあったのはその俳句のイメージをくつがえす〈イメージの俳句〉だったわけです。
たとえば今回引用させていただいた〈立ち読み〉の句は、わたしが本屋でたびたびしていた行為なので、直感的に身体で把握することができる句です。
わたしは俳句は直感的に身体で感受するなんて無理な文芸だとおもっていたんですが、西原さんの句集はそうした俳句とは無縁だった直感的な読者も呼び込んでいる。
でも、たとえば俳句的枠組みで読んでもまたちがった読みができるようにも展開されている。
その意味で、すっかりびびってしまって、すぐにともだちに西原さんの句集を貸していっしょに読み合っていたりしたのです(友人はまったく俳句は読まないのですが、西原さんの句集は俳句になじみがないひとでも読みやすい楽しい本のつくりになっていることも特徴的です。その意味でも、いろんなひとがめいめいのテクストを感受するような、〈書物〉というよりは〈けむり〉なのです。テクストとは、織物のことではなく、けむりのことです)。
だから、『週刊俳句』にはじめて投稿させていただいたときは(いまでも変わらずそうなのですが)めちゃくちゃ緊張していたわけです。手がわなわなふるえたまま、enter を押してしまったわけです。丸山進さんの句の感想文でした(丸山進さんの生きるための句で『週刊俳句』の投稿をはじめられたことを今でも幸せだとおもっています)。
で、『週刊俳句』もすごいメディアだとおもっていて、わたしは毎日バックナンバーを読み進めているのですが(そのあいだに『週刊俳句』はわたしをおいて未来にどんどんすすんでいくのですが)、週刊なのにこんなにも長く続けておられるのがすごいなあと率直におもうのです。わたしが図書館で閉館まで毎日本を読んでいたときも、寝込んでなにもせずにつっぷしていたときも、ふらふらとチョコレートをかたてに夜の街を遊び回っていたときも、終電のおわってしまった駅の階段ですやすやしていたときも、『週刊俳句』はずっとそしらぬ顔で続いていたのだなあとおもうと、ほんとうにすごいことだって素直におもうんです。
だから、今回の「第三夜」のゆめでは、わたしがたとえどんなわたしであったとしてもわたしなりに〈つづける〉っていうことはどういうことなんだろうとかんがえていたようなところがありました。『週刊俳句』がずっとつづけるという行為をしているときに、わたしはどうつづけることができるんだろうかと。
以上、第三夜まで終わったわけですが(毎回終わるごとに書いた人間がしゃべりすぎているきらいはありますが)、短歌の荻原さん、川柳のなかはらさん、俳句の西原さんというみっつのジャンルの、さんにんの原さんがすごいぞ、というところからこの『夢八夜』ははじまっています。
次回の第四夜は、わたしが、そのひとそのものが〈エレクトリカルパレード〉のような方だとおもっている方からのゆめです。私はその方にであったことで短歌を始めてみようと決意したところがあったのですが、その方がいつもおっしゃっているのは、わたしの言語感覚はふしぎだといわれているけれど、わたし自身はふつうだとおもっている、ということです。作家のベケットも独特な言語感覚のひとでしたが、もしかしたらベケットもじぶんではそうおもっていたのかなあ、とおもったりもしました。
ちなみにその方はマンガ『ベルサイユの薔薇』の解説も書いておられて、国会図書館でそれをみつけだして読んでいたことがあります。
いい、おもいでです。
「第四夜 えれくとりかるぱぱぱぱれーど」は、パレードなので、誰でも出られるということで、このわたしも出ます。いまは右手と左手を同時に出さないよう歩く練習をしています。あぶないです。
もしお時間のあるときにお読みいただければ、さいわいです。
レビュアーの岡田陽恵さんに次のようなていねいなレビューを書いていただきました。
人間はやり直すことができると説く鮫を読む。
人間は「あったこと」を忘れても「あったこと」はその脳や身体に無意識に刻まれる、ということを思い出した。
話はすこしずれるかもしれないけれど、痴呆症をもつ人がすべて忘れて赤子に戻っても、朝や夜、その息が止まる直前不意に、我に帰るということがある。
痴呆だった親戚のおじいさんもやはりその日の朝、目が覚めて赤子から88歳の男性に帰り、家族と語り合い「戦争から許してもらったんだっぺ」と言い、また眠り、2日後に息を引き取った。
かすれてしまった思い出に、塗り絵をするような今週の柳本さんの夢。
岡田さん、ありがとうございました!
岡田さんが書いてくださったように、じぶんが思ったことやじぶんにあった出来事ってわすれることはないとおもうんですよ。
たとえ、それがうしなわれても、じぶんのなかでは別のかたちをとって、つづいていく。
そういうふうに、うしなわれるものっていうのはなにもないんじゃないかなっておもうのです。
「第三夜」の今回は、西原天気さんの句から展開させていただいたゆめを描いています。
たぶんわたしが自分できちんと俳句の句集を買ったのが、西原天気さんの『句集 けむり』だったとおもうんです。
で、はじめて手にしたとき、とてもびっくりしたんです。
なんていうか、自分が思っていた俳句のイメージがそこにはなくて、そこにあったのはその俳句のイメージをくつがえす〈イメージの俳句〉だったわけです。
たとえば今回引用させていただいた〈立ち読み〉の句は、わたしが本屋でたびたびしていた行為なので、直感的に身体で把握することができる句です。
わたしは俳句は直感的に身体で感受するなんて無理な文芸だとおもっていたんですが、西原さんの句集はそうした俳句とは無縁だった直感的な読者も呼び込んでいる。
でも、たとえば俳句的枠組みで読んでもまたちがった読みができるようにも展開されている。
その意味で、すっかりびびってしまって、すぐにともだちに西原さんの句集を貸していっしょに読み合っていたりしたのです(友人はまったく俳句は読まないのですが、西原さんの句集は俳句になじみがないひとでも読みやすい楽しい本のつくりになっていることも特徴的です。その意味でも、いろんなひとがめいめいのテクストを感受するような、〈書物〉というよりは〈けむり〉なのです。テクストとは、織物のことではなく、けむりのことです)。
だから、『週刊俳句』にはじめて投稿させていただいたときは(いまでも変わらずそうなのですが)めちゃくちゃ緊張していたわけです。手がわなわなふるえたまま、enter を押してしまったわけです。丸山進さんの句の感想文でした(丸山進さんの生きるための句で『週刊俳句』の投稿をはじめられたことを今でも幸せだとおもっています)。
で、『週刊俳句』もすごいメディアだとおもっていて、わたしは毎日バックナンバーを読み進めているのですが(そのあいだに『週刊俳句』はわたしをおいて未来にどんどんすすんでいくのですが)、週刊なのにこんなにも長く続けておられるのがすごいなあと率直におもうのです。わたしが図書館で閉館まで毎日本を読んでいたときも、寝込んでなにもせずにつっぷしていたときも、ふらふらとチョコレートをかたてに夜の街を遊び回っていたときも、終電のおわってしまった駅の階段ですやすやしていたときも、『週刊俳句』はずっとそしらぬ顔で続いていたのだなあとおもうと、ほんとうにすごいことだって素直におもうんです。
だから、今回の「第三夜」のゆめでは、わたしがたとえどんなわたしであったとしてもわたしなりに〈つづける〉っていうことはどういうことなんだろうとかんがえていたようなところがありました。『週刊俳句』がずっとつづけるという行為をしているときに、わたしはどうつづけることができるんだろうかと。
以上、第三夜まで終わったわけですが(毎回終わるごとに書いた人間がしゃべりすぎているきらいはありますが)、短歌の荻原さん、川柳のなかはらさん、俳句の西原さんというみっつのジャンルの、さんにんの原さんがすごいぞ、というところからこの『夢八夜』ははじまっています。
次回の第四夜は、わたしが、そのひとそのものが〈エレクトリカルパレード〉のような方だとおもっている方からのゆめです。私はその方にであったことで短歌を始めてみようと決意したところがあったのですが、その方がいつもおっしゃっているのは、わたしの言語感覚はふしぎだといわれているけれど、わたし自身はふつうだとおもっている、ということです。作家のベケットも独特な言語感覚のひとでしたが、もしかしたらベケットもじぶんではそうおもっていたのかなあ、とおもったりもしました。
ちなみにその方はマンガ『ベルサイユの薔薇』の解説も書いておられて、国会図書館でそれをみつけだして読んでいたことがあります。
いい、おもいでです。
「第四夜 えれくとりかるぱぱぱぱれーど」は、パレードなので、誰でも出られるということで、このわたしも出ます。いまは右手と左手を同時に出さないよう歩く練習をしています。あぶないです。
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