【感想】以下同文 眠たい国に住んでいる 藤井高子
- 2015/02/20
- 00:41
以下同文 眠たい国に住んでいる 藤井高子
【ベッドの冒険】
さいきんずっと堺利彦さんの『川柳解体新書』を持ち歩いて時間があれば読んでいるんですが、この堺さんの本、ひとつの川柳アンソロジーとしても読むことができて、とてもおもしろいし、勉強になるんです。
で、そのなかで、堺さんが現在形の「る」止めの句というのをまとめているんですが、小森陽一さんのことばをひきながら堺さんが解説しているんですが、「る」っていうのは、〈時間のはば〉をもたらす語法なんです。
よく英語を教えるときに、現在形の説明としていうことですが、英語の現在形っていうのは、現在のことではないんですよ。
むしろ、習慣なんです。習慣っていうのは、過去もそうやってたし、現在もそうやってるし、未来もそうするだろうという時間感覚。それが、習慣です。
そしてその習慣こそが、現在形です。
だから、ジョンが散歩します、という英文があったら、ジョンは過去も現在も未来もまあ散歩しているだろうということなんです。ですから訳すなら、ジョンはふだん散歩しています、みたいな感じになる。
小森陽一さんは翻訳文体から語り手論を考えていたひとなので、翻訳文体として〈日本語〉の〈単一性〉を解体していく。だから、そういう指摘をされていたとおもうんです。日本語の時間感覚は、翻訳文体、もしくは翻訳の過程で多くを負っている。
で、いちばんうえの句なんですが、
「眠たい国に住んでいる」。
これはだからずっと住んでるわけです。
過去も、現在も、未来も。たぶん。
過去から未来へと時間のはばのなかで眠たい国に住んでいるわけです。
だからこのとき〈眠い〉のは、「国」というよりは、むしろ「る」で終わる時間感覚、途方もない時間のはばの〈ねむたさ〉なのかもしれない。
時間を言語上多く持つということは、そこにみずからの人生のながい時間をも預けることになるので、おおくのねむりもまた託すことになるかもしれない。
ねむることがだいすきなベッドの冒険家としては、そんなふうにもいってみたくなります。
でも、この句が語っているように、眠りの国においては、言語は不必要なわけです。
ゆめみることは語ることですが、ねむることは語るのをやめることです。
ですから、「以下同文」がこの国のことばです。
以下同文あるいはZZZZZ
おやすみなさい。
川柳の表現の〈基本的な独歩〉は、まずもって〈現在(いま)〉〈ここ〉に〈居る(在る)〉を〈まなざす〉という、《現在(いま)をまなざす》ことに他ならないと思うのです。
なかはられいこは、川柳作品集『散華詩集』の“あとがき”で、明日への運命におののきつつ、今日を大切に生きる証しとして、川柳の創作に取り組んでいる心持ちを述べています。このことも〈現在をまなざす〉姿勢であると理解することができます。
堺利彦『川柳解体新書』
【ベッドの冒険】
さいきんずっと堺利彦さんの『川柳解体新書』を持ち歩いて時間があれば読んでいるんですが、この堺さんの本、ひとつの川柳アンソロジーとしても読むことができて、とてもおもしろいし、勉強になるんです。
で、そのなかで、堺さんが現在形の「る」止めの句というのをまとめているんですが、小森陽一さんのことばをひきながら堺さんが解説しているんですが、「る」っていうのは、〈時間のはば〉をもたらす語法なんです。
よく英語を教えるときに、現在形の説明としていうことですが、英語の現在形っていうのは、現在のことではないんですよ。
むしろ、習慣なんです。習慣っていうのは、過去もそうやってたし、現在もそうやってるし、未来もそうするだろうという時間感覚。それが、習慣です。
そしてその習慣こそが、現在形です。
だから、ジョンが散歩します、という英文があったら、ジョンは過去も現在も未来もまあ散歩しているだろうということなんです。ですから訳すなら、ジョンはふだん散歩しています、みたいな感じになる。
小森陽一さんは翻訳文体から語り手論を考えていたひとなので、翻訳文体として〈日本語〉の〈単一性〉を解体していく。だから、そういう指摘をされていたとおもうんです。日本語の時間感覚は、翻訳文体、もしくは翻訳の過程で多くを負っている。
で、いちばんうえの句なんですが、
「眠たい国に住んでいる」。
これはだからずっと住んでるわけです。
過去も、現在も、未来も。たぶん。
過去から未来へと時間のはばのなかで眠たい国に住んでいるわけです。
だからこのとき〈眠い〉のは、「国」というよりは、むしろ「る」で終わる時間感覚、途方もない時間のはばの〈ねむたさ〉なのかもしれない。
時間を言語上多く持つということは、そこにみずからの人生のながい時間をも預けることになるので、おおくのねむりもまた託すことになるかもしれない。
ねむることがだいすきなベッドの冒険家としては、そんなふうにもいってみたくなります。
でも、この句が語っているように、眠りの国においては、言語は不必要なわけです。
ゆめみることは語ることですが、ねむることは語るのをやめることです。
ですから、「以下同文」がこの国のことばです。
以下同文あるいはZZZZZ
おやすみなさい。
川柳の表現の〈基本的な独歩〉は、まずもって〈現在(いま)〉〈ここ〉に〈居る(在る)〉を〈まなざす〉という、《現在(いま)をまなざす》ことに他ならないと思うのです。
なかはられいこは、川柳作品集『散華詩集』の“あとがき”で、明日への運命におののきつつ、今日を大切に生きる証しとして、川柳の創作に取り組んでいる心持ちを述べています。このことも〈現在をまなざす〉姿勢であると理解することができます。
堺利彦『川柳解体新書』
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