【感想】逆光に向かってどうぞモッツァレラ 瀧村小奈生
- 2014/05/19
- 20:05
逆光に向かってどうぞモッツァレラ 瀧村小奈生
【川柳におけるモッツァレラを食べる】
川柳におけるカタカナの役割というのをずっと考えているんですが、たとえばうえの瀧村さんの句では「モッツァレラ」というのが下五であらわれることによって575という川柳のとても短い定型のなかでまったく違う位相を呼び込むことに成功しているとおもうんですね。
ここで大事なことは、「モッツァレラ」というのが処理できないものとしてあらわれてしまっているということだとおもいます。
「モッツァレラ」は「モッツァレラチーズ」だとおもうんですがここで大事なのは、「モッツァレラチーズ」がなぜでてくるのかを解釈するのではなくて、上五の「逆光に」と下五の「モッツァレラ」が響きあっているということではないかと思うんです。
逆光とは被写体の背後から光がさすことによって被写体そのものがみえなくなってしまう、真っ黒になりよくわからなくなってしまうことだとおもうんですが、ここではそのような「逆光」における「わからなさ」が「モッツァレラ」として最終的に昇華されている点なのではないかとおもうんです。
またこの句においては、「モッツァレラ」そのものが中七の「向かってどうぞ」からの流れにより名詞でありながらも身体的アクションのような動態的な要素、つまり動詞化しているのもの特徴的だとおもいます。こんなことがなぜ起こり得るのかといえば、それはカタカナだからだと思うんですね。カタカナというのは、象形文字ではないので、カタカナをじっとみていても意味がわかってくるわけではありません。そもそもが音の響きだけによって成り立っているのがカタカナ語なので、「牛乳」とみてああこれは「牛の乳のことだなあ」と解釈することができない、意味のコードが微弱であるのがカタカナです。しかし、意味の枠組が弱いということは、語法によってカタカナにあらたな意味としての語法を盛り込むこともできるということです。しかもその音の響きもいかしながら。
この瀧村さんの句は、そういったモッツァレラを独特な語法のなかに組み込むことによってモッツァレラそのもののわかりにくさをとても効果的に活かしているように思われるのです。川柳におけるカタカナとはなにかを考えさせられる句であるとおもっています。
この句をつくられた瀧村小奈生さんは、「そらいろの空」というさまざまな現代川柳を紹介するブログを書かれていて、わたしも瀧村さんのブログからいろいろな句を教えていただいたりもしていたのですが、今回わたしの句「リンス・イン・魂(洗い流せない)」を掲載して評を書いてくださっていて(参照:瀧村小奈生さんが読む「リンス・イン・魂(洗い流せない) )、わたしの名前がここでみられるとは思っていなかったので恐縮しつつもたいへんうれしくおもいました。ほんとうにありがとうございました。
瀧村さんのことばをすこし引用させていただくと、
( )に入った「洗い流せない」こそがこの句のすべてではないのでしょうか。魂についた洗い流せないものに意識が集中するのです。「リンス・イン・」はちょっとした助走のようなものであり、魂から洗い流したい説明のつかない何かのイメージをつくるのに有効なフレーズであると思われます。だって、リンス・イン・シャンプーってどうしようもないんです。シャンプーはしっかり洗い流したいのに、リンスはあまり洗い流しちゃいけないもので、この二つが共存していても困るだけ。リンスのサラサラツヤツヤ効果が期待できません。ちょっと聞くと便利そうで実は意味のないものですよね。
とていねいに評を書いていただきました。瀧村さんからのことばを読んでたくさんのことを教えていただいたのですがそのなかのひとつに、「リンス・イン」というのはたしかに瀧村さんがおっしゃるように簡便さからふたつの相反するものを「共存」させ、パッケージングしているためにどちらもできながらも・どちらもできていないんじゃないかという意識を語り手、いや洗い手にもたらすんじゃないかということを思いました。洗髪しながら浴室で洗い手はジレンマに陥るわけです。
キルケゴールは「あれか-これか」というきわどい選択においてひとはもっとも〈実存的〉になるんだと『現代の批判』で述べていましたが、その「あれか―これか」を奪い去るのが「リンス・イン」なのではないか、と。キルケゴールもさすがにこれではあたまを洗えないよ、といったのではないでしょうか。わたしは、一択でケラスターゼを使うよと。洗い流すトリートメントもつかうよと。
「魂」にひつようなものはなんだろう。「魂」にも簡便さと陥穽があるのだろうか。そんなことを瀧村さんからいただいたことばをよみながら、おもいました。
掲載していただいてほんとうにうれしかったです。
瀧村小奈生さん、ありがとうございました!
伸びをするひとつの点になるために 瀧村小奈生
決定的なあれかーこれかに当面しているかどうかは、個人自身の情熱的な欲求が決定的に行動しようとしているのかどうかに、個人自身のうちにそれだけのたくましさがあるか否かに、かかっている。
キルケゴール『現代の批判』
【川柳におけるモッツァレラを食べる】
川柳におけるカタカナの役割というのをずっと考えているんですが、たとえばうえの瀧村さんの句では「モッツァレラ」というのが下五であらわれることによって575という川柳のとても短い定型のなかでまったく違う位相を呼び込むことに成功しているとおもうんですね。
ここで大事なことは、「モッツァレラ」というのが処理できないものとしてあらわれてしまっているということだとおもいます。
「モッツァレラ」は「モッツァレラチーズ」だとおもうんですがここで大事なのは、「モッツァレラチーズ」がなぜでてくるのかを解釈するのではなくて、上五の「逆光に」と下五の「モッツァレラ」が響きあっているということではないかと思うんです。
逆光とは被写体の背後から光がさすことによって被写体そのものがみえなくなってしまう、真っ黒になりよくわからなくなってしまうことだとおもうんですが、ここではそのような「逆光」における「わからなさ」が「モッツァレラ」として最終的に昇華されている点なのではないかとおもうんです。
またこの句においては、「モッツァレラ」そのものが中七の「向かってどうぞ」からの流れにより名詞でありながらも身体的アクションのような動態的な要素、つまり動詞化しているのもの特徴的だとおもいます。こんなことがなぜ起こり得るのかといえば、それはカタカナだからだと思うんですね。カタカナというのは、象形文字ではないので、カタカナをじっとみていても意味がわかってくるわけではありません。そもそもが音の響きだけによって成り立っているのがカタカナ語なので、「牛乳」とみてああこれは「牛の乳のことだなあ」と解釈することができない、意味のコードが微弱であるのがカタカナです。しかし、意味の枠組が弱いということは、語法によってカタカナにあらたな意味としての語法を盛り込むこともできるということです。しかもその音の響きもいかしながら。
この瀧村さんの句は、そういったモッツァレラを独特な語法のなかに組み込むことによってモッツァレラそのもののわかりにくさをとても効果的に活かしているように思われるのです。川柳におけるカタカナとはなにかを考えさせられる句であるとおもっています。
この句をつくられた瀧村小奈生さんは、「そらいろの空」というさまざまな現代川柳を紹介するブログを書かれていて、わたしも瀧村さんのブログからいろいろな句を教えていただいたりもしていたのですが、今回わたしの句「リンス・イン・魂(洗い流せない)」を掲載して評を書いてくださっていて(参照:瀧村小奈生さんが読む「リンス・イン・魂(洗い流せない) )、わたしの名前がここでみられるとは思っていなかったので恐縮しつつもたいへんうれしくおもいました。ほんとうにありがとうございました。
瀧村さんのことばをすこし引用させていただくと、
( )に入った「洗い流せない」こそがこの句のすべてではないのでしょうか。魂についた洗い流せないものに意識が集中するのです。「リンス・イン・」はちょっとした助走のようなものであり、魂から洗い流したい説明のつかない何かのイメージをつくるのに有効なフレーズであると思われます。だって、リンス・イン・シャンプーってどうしようもないんです。シャンプーはしっかり洗い流したいのに、リンスはあまり洗い流しちゃいけないもので、この二つが共存していても困るだけ。リンスのサラサラツヤツヤ効果が期待できません。ちょっと聞くと便利そうで実は意味のないものですよね。
とていねいに評を書いていただきました。瀧村さんからのことばを読んでたくさんのことを教えていただいたのですがそのなかのひとつに、「リンス・イン」というのはたしかに瀧村さんがおっしゃるように簡便さからふたつの相反するものを「共存」させ、パッケージングしているためにどちらもできながらも・どちらもできていないんじゃないかという意識を語り手、いや洗い手にもたらすんじゃないかということを思いました。洗髪しながら浴室で洗い手はジレンマに陥るわけです。
キルケゴールは「あれか-これか」というきわどい選択においてひとはもっとも〈実存的〉になるんだと『現代の批判』で述べていましたが、その「あれか―これか」を奪い去るのが「リンス・イン」なのではないか、と。キルケゴールもさすがにこれではあたまを洗えないよ、といったのではないでしょうか。わたしは、一択でケラスターゼを使うよと。洗い流すトリートメントもつかうよと。
「魂」にひつようなものはなんだろう。「魂」にも簡便さと陥穽があるのだろうか。そんなことを瀧村さんからいただいたことばをよみながら、おもいました。
掲載していただいてほんとうにうれしかったです。
瀧村小奈生さん、ありがとうございました!
伸びをするひとつの点になるために 瀧村小奈生
決定的なあれかーこれかに当面しているかどうかは、個人自身の情熱的な欲求が決定的に行動しようとしているのかどうかに、個人自身のうちにそれだけのたくましさがあるか否かに、かかっている。
キルケゴール『現代の批判』
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