【感想】中山奈々「Stand by Me - B. E. King」『週刊俳句』
- 2015/02/24
- 19:07
ちょうど一年前くらいに中山奈々さんの「Stand by Me - B. E. King」を読んだときにめちゃくちゃ感動した。
Stand by Me - B. E. King
そのときひとを待っていたために帝国ホテルのロビーで深く沈みこんで座りながら読んでいたのだが、思わず浮き腰になって、元気にもなって、外をみたら桜もあって、もうもうとすごく散っていて、いろんなことにいちどきにびっくりして、いっそくとびにへろへろになって、待ち合わせ場所にあらわれたひとが、いったいこんなにへたってしまわれてどうされたんですか、とわたしはいわれた。
いやこのスタンドバイミーの俳句訳がなんだかすごくてすてきなんです、とわたしはふるえる声でいった。
スタンドバイミーを俳句語訳するなんて、なんてクレバーですてきなことかんがえつくひとがいるんだろうとおもったのだ。
いまでもときどきふっと、奈々さん、スタンドバイミー俳句訳してたなあとおもいだすたびに、胸がきらきらしたりする。☆とか★が、でる。
歌を、俳句訳するってどういうことなんだろう。
それは、俳句に情感をあたえることだ。
俳句に、内面を与える行為である。
だから、昨日のハイク・ゾンビとは、逆行する行為だ。
だがらこそ、ゾンビたちに翻訳者はいない。
かれらは、ことばをことばで翻訳しない。
なぜなら、ゾンビには情感や内面がないからだ。
だから、歌うこともない。
歌は、情感や内面で、論理や即物性(ザッハリッヒカイト)を越える行為だからだ。
でも、ここであらためてかんがえてみれば、ななさんは、歌をうたっているわけではない。
〈翻訳〉をしたのである。
だから、修正しなければならない。
ここには、じつは、内面や情感、抒情はない。
ここにあるのは、ことばとことばが衝突しあい、折衝しあい、わたしたちがどの地点で意味を決定づけるかという、ドライな空間なのだと。
だから、あえていうならば、空間がゾンビ的なのである。
ことばの身体とことばの身体がぶつかりあう。
もちろん、歌詞と俳句の意味がシンクロし、一致することもあるかもしれない。
しかし、翻訳とは、原理的に交換性が不可能なものを、不可能をひきうけながら、非交換的にぶつける行為である。
それはある意味、言語的ですらない。
意味のたたかいでもない。
むしろそうしたたたかわせるためのことばのコロシアムをどのように形成できるか。
それが、翻訳なのだ。
小池正博さんのブログで読んだことだが、ななさんがたしか俳句をだれに詠んでみてもらいたいか聞かれて、ブッダ釈尊とこたえていた。
ブッダなら、まっさらな、まっしろな、ゼロの、零度の俳句をつくるかもしれない。
そして、ゾンビだって、おなじく、白いエクリチュール(ゼロ意味・ゼロ時間のことば)で、俳句をつくるだろう。
生きているのでも、死んでいるのでもない、境界線のない場所にいる、ブッダとゾンビ。
月さえもない、生の、ことばの、情の、〈彼岸〉にいるということは、そういうことなのだ。
月おぼろ鎖骨の当たるカウンター 中山奈々
Stand by Me - B. E. King
そのときひとを待っていたために帝国ホテルのロビーで深く沈みこんで座りながら読んでいたのだが、思わず浮き腰になって、元気にもなって、外をみたら桜もあって、もうもうとすごく散っていて、いろんなことにいちどきにびっくりして、いっそくとびにへろへろになって、待ち合わせ場所にあらわれたひとが、いったいこんなにへたってしまわれてどうされたんですか、とわたしはいわれた。
いやこのスタンドバイミーの俳句訳がなんだかすごくてすてきなんです、とわたしはふるえる声でいった。
スタンドバイミーを俳句語訳するなんて、なんてクレバーですてきなことかんがえつくひとがいるんだろうとおもったのだ。
いまでもときどきふっと、奈々さん、スタンドバイミー俳句訳してたなあとおもいだすたびに、胸がきらきらしたりする。☆とか★が、でる。
歌を、俳句訳するってどういうことなんだろう。
それは、俳句に情感をあたえることだ。
俳句に、内面を与える行為である。
だから、昨日のハイク・ゾンビとは、逆行する行為だ。
だがらこそ、ゾンビたちに翻訳者はいない。
かれらは、ことばをことばで翻訳しない。
なぜなら、ゾンビには情感や内面がないからだ。
だから、歌うこともない。
歌は、情感や内面で、論理や即物性(ザッハリッヒカイト)を越える行為だからだ。
でも、ここであらためてかんがえてみれば、ななさんは、歌をうたっているわけではない。
〈翻訳〉をしたのである。
だから、修正しなければならない。
ここには、じつは、内面や情感、抒情はない。
ここにあるのは、ことばとことばが衝突しあい、折衝しあい、わたしたちがどの地点で意味を決定づけるかという、ドライな空間なのだと。
だから、あえていうならば、空間がゾンビ的なのである。
ことばの身体とことばの身体がぶつかりあう。
もちろん、歌詞と俳句の意味がシンクロし、一致することもあるかもしれない。
しかし、翻訳とは、原理的に交換性が不可能なものを、不可能をひきうけながら、非交換的にぶつける行為である。
それはある意味、言語的ですらない。
意味のたたかいでもない。
むしろそうしたたたかわせるためのことばのコロシアムをどのように形成できるか。
それが、翻訳なのだ。
小池正博さんのブログで読んだことだが、ななさんがたしか俳句をだれに詠んでみてもらいたいか聞かれて、ブッダ釈尊とこたえていた。
ブッダなら、まっさらな、まっしろな、ゼロの、零度の俳句をつくるかもしれない。
そして、ゾンビだって、おなじく、白いエクリチュール(ゼロ意味・ゼロ時間のことば)で、俳句をつくるだろう。
生きているのでも、死んでいるのでもない、境界線のない場所にいる、ブッダとゾンビ。
月さえもない、生の、ことばの、情の、〈彼岸〉にいるということは、そういうことなのだ。
月おぼろ鎖骨の当たるカウンター 中山奈々
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