【お知らせ】「第四夜 こんなゆめをみたこんなゆめをみたえれくとりかるぱぱぱぱれーど」『夢八夜』
- 2015/02/25
- 19:28
WEBマガジン『アパートメント』にて連載『夢八夜』第四回目の「第四夜 こんなゆめをみたこんなゆめをみたえれくとりかるぱぱぱぱれーど」という掌編(というには、おい、あれね、やぎもと、あれ、ながすぎるよ、スクロールさせすぎだよ、ともいわれてはいるのだけれども)を載せていただきました。
もしお時間のあるときにお読みいただければ、さいわいです。
レビューを担当してくださっている岡田陽恵さんが次のようなていねいなレビューを書いてくださいました。
岡田さん、ありがとうございました!
柳本さんの夢に慣れてきた。
こうなってくると、柳本さんの持つリズムが身体にすんなりと入ってくる。
いまのところ、柳本さんの連載を拝読していくなかで1番グッときた今週の夢。
作中にわたしの地元いわき市小川町出身の詩人草野心平の名もあった。
柳本さんもけっこう変だし、草野心平も変人で有名だった。けれどわたしは好きだ。
柳谷あゆみさんの短歌のエレクトリカルパレードのようなエネルギーって、ことばのつかいかたそのものに根付いてる気がするんですね。
ことばのなかからもういちどエネルギーをひっぱりだしていく。
粘着していた既存のことばの組み合わせをばらばらにして、かといって思想的・哲学的・難解になるわけではなく、いま使われているふだんの、教科書翻訳のようなシンプルなことばで、しかし異質な組み立て方をすることによって、ことばのエネルギーをもういちどことば自身に取り返していく。
そこに、意味のスプラッシュマウンテンがいっきになだれこんでいくエネルギーがうまれているのではないか。
そんなふうにいつも柳谷さんの歌集やかばんの短歌連作を読んではおもっています。
毎年かばんの一月号は、名前が五十音順なので、柳谷(やなぎや)さんのまえに、わたし、柳本(やぎもと)が置いてもらうのですが、まるで注射をするために並ぶときに五十音順に並ばされたことに運命を感じてしまったかのようにうれしくもあります。
次回は、わたしが線のひとだと思う方からのゆめです。わたしがその方の表現をみていつも感じているのは、生きているといろんな境界線をかってに引いてしまうけれど、でもその境界線をもういちどことばから引き直してみる、あえて線を無作為に引き、混線させることによって、もういちど生きて語るということを構築しなおすというテーマ性です。
線とは、文字であり、そして線は、無数の線が交錯することによって絵にもなっていきます。
安福望さんの絵(食器と食パンとペン)をいつも拝見していてずっと考えていたことだったのですが、絵というものには、人物や動物そのものの表情だけでなく、線の表情がある。
人物や動物をめぐる線がたちあがってくるときの、線の風景としていきづているのが絵ではないか、と思ったんです。
線の表情。
線の表情によってみえなかった私の生をもういちどさぐりなおすこと。かってに引かれてしまっていた境界線をひきなおすこと。わたしのための線をひっぱりなおすこと。
それは、わたしたちがふだん書いている文字としての線、もしくは定型という線分によって線をひきなおす短歌や俳句や川柳、線によって空間としての表情をたちあげる絵も、どこか似ているのではないかとおもうんです。
ですから次回「第五夜 びいいいいいっとした夢」は、線のようなアルファベットのひとたちと観るクレヨンで描くゆめです。
もしお時間のあるときにお読みいただければ、さいわいです。
レビューを担当してくださっている岡田陽恵さんが次のようなていねいなレビューを書いてくださいました。
岡田さん、ありがとうございました!
柳本さんの夢に慣れてきた。
こうなってくると、柳本さんの持つリズムが身体にすんなりと入ってくる。
いまのところ、柳本さんの連載を拝読していくなかで1番グッときた今週の夢。
作中にわたしの地元いわき市小川町出身の詩人草野心平の名もあった。
柳本さんもけっこう変だし、草野心平も変人で有名だった。けれどわたしは好きだ。
柳谷あゆみさんの短歌のエレクトリカルパレードのようなエネルギーって、ことばのつかいかたそのものに根付いてる気がするんですね。
ことばのなかからもういちどエネルギーをひっぱりだしていく。
粘着していた既存のことばの組み合わせをばらばらにして、かといって思想的・哲学的・難解になるわけではなく、いま使われているふだんの、教科書翻訳のようなシンプルなことばで、しかし異質な組み立て方をすることによって、ことばのエネルギーをもういちどことば自身に取り返していく。
そこに、意味のスプラッシュマウンテンがいっきになだれこんでいくエネルギーがうまれているのではないか。
そんなふうにいつも柳谷さんの歌集やかばんの短歌連作を読んではおもっています。
毎年かばんの一月号は、名前が五十音順なので、柳谷(やなぎや)さんのまえに、わたし、柳本(やぎもと)が置いてもらうのですが、まるで注射をするために並ぶときに五十音順に並ばされたことに運命を感じてしまったかのようにうれしくもあります。
次回は、わたしが線のひとだと思う方からのゆめです。わたしがその方の表現をみていつも感じているのは、生きているといろんな境界線をかってに引いてしまうけれど、でもその境界線をもういちどことばから引き直してみる、あえて線を無作為に引き、混線させることによって、もういちど生きて語るということを構築しなおすというテーマ性です。
線とは、文字であり、そして線は、無数の線が交錯することによって絵にもなっていきます。
安福望さんの絵(食器と食パンとペン)をいつも拝見していてずっと考えていたことだったのですが、絵というものには、人物や動物そのものの表情だけでなく、線の表情がある。
人物や動物をめぐる線がたちあがってくるときの、線の風景としていきづているのが絵ではないか、と思ったんです。
線の表情。
線の表情によってみえなかった私の生をもういちどさぐりなおすこと。かってに引かれてしまっていた境界線をひきなおすこと。わたしのための線をひっぱりなおすこと。
それは、わたしたちがふだん書いている文字としての線、もしくは定型という線分によって線をひきなおす短歌や俳句や川柳、線によって空間としての表情をたちあげる絵も、どこか似ているのではないかとおもうんです。
ですから次回「第五夜 びいいいいいっとした夢」は、線のようなアルファベットのひとたちと観るクレヨンで描くゆめです。
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