【感想】十四字詩(77)、または遙かなるラブ・オン!
- 2015/02/26
- 00:00
黄泉の手前で消えるカーナビ 瀧正治
『川柳スープレックス』で飯島章友さんが十四字詩(77)について書かれている。
川柳雑誌「風」95号と瀧正治
以前、小池正博さんが77の句を句集に載せられていたこともあって(十四字「鳥の素顔」)、77の詩というものに興味はあったのだが以前からよくわからなかったり77の詩に対しておびえていたところがあった。
こわかったのである。なんだか。
だから、とつぜん十四字詩を唱えるひとにであうと、よくふとんをかぶったりしていた。まんじゅうはわたしはこわくはないが、十四字詩は、なんだか、いまだにこわい。
だから、飯島さんの書かれた記事を読んでいろいろあらためて勉強したところがあった。
77が以前からこわかったのは、575では、出来事を語ることがまだ可能なのだが、77では出来事すら語ることが不能になるんじゃないかとおもったからだ。
出来事を語れなくなると、どうなるのか。
たぶん、内面が、ふっと出てくる。
ちょっとそんなふうに乱暴に(たぶん短歌の構造からの発想なのだが)、以前からおもっていたところがある。
ちょっと自分なりの77を考えるために、短歌の話からはじめてみたい。
私は、ときどき、短歌の構文を次のように、理解していることがある。
575(なんかあったの!)+77(なにがあったの?)
575では「なんかあった」こと(出来事)を話す。
そして、77では、「なにがあった」のか(心情)を語る。
それが短歌じゃないかなとおもったりすることがある。
たとえば、飯田有子さんにこんな歌がある。
眠れずにいる星の夜はヴェポラップ塗られた胸をはだけたまんま 飯田有子
ここでまず「なんかあった」こととして、「眠れずにいる星の夜はヴェポラップ」が語られる。それがまず出来事として起こる。
そして即座に、「なにがあった」のかとして「塗られた胸をはだけたまんま」と〈心情〉が語られる。「塗られた胸をはだけたまんま」ということであえて解釈すれば、心情が剥き出しになっている。しかもヴェポラップなので、スースーしている、ともいえる。
ヴェポラップを塗ることを〈ラブ・オン!〉というように、触感的な歌でもあるのでセクシャルな解釈もできるし(君にラブオン!)、眠れない身体がヴェポラップによって解き放たれる身体的なテーマとして読むことも可能である。
ともかく、大事なのは、「なんかあった」ことに対して「なにがあった」かも語られることで解釈のリードが行われることだ。こう読んでくださいね、という読みのベクトルや流れができる。
飯島さんが(偶然かもしれないと前置きしながら)尾崎放哉の77の句を紹介されている。
入れものが無い両手で受ける 尾崎放哉
これは、77なので「なにがあったの」かを語っている。
たぶん、なにかを身体的に感受したのだ。
だから、ここで想像を働かせるのは、うしなわれた575。つまり、「なんかあった」んだろうけれど、それってなんなんだろう、の領域である。
むこうからだれかが水をくんでやってきてるのかもしれないし、とつぜんのどしゃぶりかもしれないし、チロルチョコレートをやまほどくれるだいすきなひとにであったのかもしれない。
ともかく、「なんかあった」。
でも、それは語らない。
それが、77なのではないかとおもうのだ。
逆にいえば、575とは、「なんかあった」ことを語り「なにがあったの」かは語らない表現形式ということになる。
だから、ロラン・バルトはある意味、575=俳句は、「これだ!」という言語表現だと、いっていた。
「これだ!」=「なんかあった!」。それが、俳句であり、たぶん、川柳も、なのである。
まとめてみると、〈ラブオン!〉とは、ヴェポラップを塗ることである。
だから、ラブオン!とは、「なんかあった!」ということであり、ラブオン!は、575である。
そして、77とは、ぎゃくに、どんな〈ラブオン!〉があったのかをかんがえる詩だということができるのではないだろうか。
77は、短い。575よりもあっという間である(575がいかに長い冒険か!)。
だからこそ、するどさがあるというひともいる。
出来事を語るよゆうもない。
だからこそ、ラブオンしてるひまもない。
「なんかあった」ことを語るひまはないので、
「なにがあったの?」かだけを、語る。
だから、「なにがあったの」かを語る77は、たぶん、「なにがあってはいけないの」かも語ってくれる。たとえば、
鳥の素顔を見てはいけない 小池正博
──鳥の素顔。
やっぱり、こわい!
『川柳スープレックス』で飯島章友さんが十四字詩(77)について書かれている。
川柳雑誌「風」95号と瀧正治
以前、小池正博さんが77の句を句集に載せられていたこともあって(十四字「鳥の素顔」)、77の詩というものに興味はあったのだが以前からよくわからなかったり77の詩に対しておびえていたところがあった。
こわかったのである。なんだか。
だから、とつぜん十四字詩を唱えるひとにであうと、よくふとんをかぶったりしていた。まんじゅうはわたしはこわくはないが、十四字詩は、なんだか、いまだにこわい。
だから、飯島さんの書かれた記事を読んでいろいろあらためて勉強したところがあった。
77が以前からこわかったのは、575では、出来事を語ることがまだ可能なのだが、77では出来事すら語ることが不能になるんじゃないかとおもったからだ。
出来事を語れなくなると、どうなるのか。
たぶん、内面が、ふっと出てくる。
ちょっとそんなふうに乱暴に(たぶん短歌の構造からの発想なのだが)、以前からおもっていたところがある。
ちょっと自分なりの77を考えるために、短歌の話からはじめてみたい。
私は、ときどき、短歌の構文を次のように、理解していることがある。
575(なんかあったの!)+77(なにがあったの?)
575では「なんかあった」こと(出来事)を話す。
そして、77では、「なにがあった」のか(心情)を語る。
それが短歌じゃないかなとおもったりすることがある。
たとえば、飯田有子さんにこんな歌がある。
眠れずにいる星の夜はヴェポラップ塗られた胸をはだけたまんま 飯田有子
ここでまず「なんかあった」こととして、「眠れずにいる星の夜はヴェポラップ」が語られる。それがまず出来事として起こる。
そして即座に、「なにがあった」のかとして「塗られた胸をはだけたまんま」と〈心情〉が語られる。「塗られた胸をはだけたまんま」ということであえて解釈すれば、心情が剥き出しになっている。しかもヴェポラップなので、スースーしている、ともいえる。
ヴェポラップを塗ることを〈ラブ・オン!〉というように、触感的な歌でもあるのでセクシャルな解釈もできるし(君にラブオン!)、眠れない身体がヴェポラップによって解き放たれる身体的なテーマとして読むことも可能である。
ともかく、大事なのは、「なんかあった」ことに対して「なにがあった」かも語られることで解釈のリードが行われることだ。こう読んでくださいね、という読みのベクトルや流れができる。
飯島さんが(偶然かもしれないと前置きしながら)尾崎放哉の77の句を紹介されている。
入れものが無い両手で受ける 尾崎放哉
これは、77なので「なにがあったの」かを語っている。
たぶん、なにかを身体的に感受したのだ。
だから、ここで想像を働かせるのは、うしなわれた575。つまり、「なんかあった」んだろうけれど、それってなんなんだろう、の領域である。
むこうからだれかが水をくんでやってきてるのかもしれないし、とつぜんのどしゃぶりかもしれないし、チロルチョコレートをやまほどくれるだいすきなひとにであったのかもしれない。
ともかく、「なんかあった」。
でも、それは語らない。
それが、77なのではないかとおもうのだ。
逆にいえば、575とは、「なんかあった」ことを語り「なにがあったの」かは語らない表現形式ということになる。
だから、ロラン・バルトはある意味、575=俳句は、「これだ!」という言語表現だと、いっていた。
「これだ!」=「なんかあった!」。それが、俳句であり、たぶん、川柳も、なのである。
まとめてみると、〈ラブオン!〉とは、ヴェポラップを塗ることである。
だから、ラブオン!とは、「なんかあった!」ということであり、ラブオン!は、575である。
そして、77とは、ぎゃくに、どんな〈ラブオン!〉があったのかをかんがえる詩だということができるのではないだろうか。
77は、短い。575よりもあっという間である(575がいかに長い冒険か!)。
だからこそ、するどさがあるというひともいる。
出来事を語るよゆうもない。
だからこそ、ラブオンしてるひまもない。
「なんかあった」ことを語るひまはないので、
「なにがあったの?」かだけを、語る。
だから、「なにがあったの」かを語る77は、たぶん、「なにがあってはいけないの」かも語ってくれる。たとえば、
鳥の素顔を見てはいけない 小池正博
──鳥の素顔。
やっぱり、こわい!
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