【感想】川柳と映画をめぐって、或いはお化粧をして街へ出よう
- 2015/02/27
- 22:54
小池正博さんが「 飯田良祐のいる二月 」で飯田さんの句評を書かれている。
お白粉をつけて教授の鰊蕎麦 飯田良祐
この句についての小池さんの「人は白粉をつけ化粧することで日常とは次元の異なる世界にヴァージョン・アップする。それなのに、鰊蕎麦という日常次元にダウンしてしまう。その落差が何となくおかしい。」という記述を読んだときに、ふっと頭に浮かんだ映画=イメージがある。
ヴィスコンティの『ベニスに死す』だ。
映画『ベニスに死す』はかんたんにいえばひとりの中年男性がひとりの少年の背中を2時間11分追いかけつづける映画である。
中年男性のアッシェンバッハ教授がその少年のことを大好きになってしまったのかどうか、それはわからない。
ふたりは会話も交わさないし、アッシェンバッハ教授も内面を語らない。
つまり、ほんとうに、ひとりのにんげんがひとりのにんげんを追いかけるだけの映画なのだ。
ただ映画のなかで教授はなんどか境界線をふみこえる。
やっちゃったら、戻れないポイントをわかりやすく踏み越える。
ひとつの例が、化粧である。
教授は、理容店で乙女のような化粧を施されてしまうのだが、そして、みずからにうっとりし、オトメンになってしまうのだが、どうみても客観的には、道化やピエロ、あるいは死化粧にしかみえない。
しかし、教授は満足している。
(あれ、案外、いいかんじじゃね?)
(いいかんじじゃん!)
実は映画の冒頭に、やはり化粧をした教授そっくりの出で立ちの男がでてくる。教授は軽蔑した視線を投げかけるのだが、ストーキングの道程において、教授はついにその軽蔑していたはずの男に同化してしまう。
この化粧はいろんな意味をもつ。
死化粧としての、死へのプロセスの転換。
或いは、教授の女性ジェンダー化。
もしくは、教授が鏡でじぶんをみることにより、じぶんと少年の差異を発見してしまい、そのことにより、じぶんと少年の決定的懸隔を感じ、その距離によって滅ぼされる存在になってしまうこと。つまり、鏡からの距離の発見。
もしくは、化粧をしたことで、いままでまなざす存在だった教授は、道化的なまなざされる存在になり、まなざしとまなざされの視線の板挟みのなかで、〈みる〉ということの崩壊を引き受ける存在になってしまうこと。
(おなかいたい……)
女性も男性も、化粧をすることはいろんな境界線をめいめいの文脈にあわせてふみこえることだ。
飯田さんの句「お白粉をつけて教授」の教授が、男性か女性かは、わからない。
だから、小池さんの言葉のように、ここでの「お白粉」は〈日常のバージョンアップ〉であり、アッシェンバッハ教授がバージョンアップすることで、それまでとは自身の生き方が決定的に変えざるをえなくなったことともつながっている。アッシェンバッハ教授の場合は、終わりに向かっていった。
(鰊蕎麦……)
アッシェンバッハ教授は、〈食べる〉ことには、向かわなかった。
かれは、むしろ、自身の記憶や回想を〈食べる〉ことに向かい始めた。じしんがじしんの牢獄に入ることで、自壊していく過程を踏んだ。
でも飯田さんの句がむかったのは、「鰊蕎麦」である。
「鰊蕎麦」は、「鰊蕎麦」として自身の観念、じぶんの牢獄をうちくだく即物性がある。
〈食べる〉行為は、生のベクトルへ向かい直す契機となるのだから。
つまり、こういうことだ。
「化粧」にも「教授」にも、自分が自分を視つづける、あるいは自分が自分の知をサーチしつづける、視線と知識の牢獄がある。
でも、「鰊蕎麦」には、そうしたナルシシズムは、ない。
それはあくまで〈食べる〉ことなのだ。
ナルシシズムのような循環ベクトルではなく、食べて、からだにいれるという方向ベクトルである。
小池さんの「鰊蕎麦は日常次元へのダウン」ということばは、化粧による観念レベルからの身体レベルへの再帰をも意味している。
だから、アッシェンバッハ教授は、 鰊蕎麦を食べていたら、よかったのかもしれないともおもう。そうしたら彼は「ベニスに生きる」になってかもしれない。
貴族主義のヴィスコンティは、ノーというかもしれないけれど、祝祭的なフェリーニなら、喜んでそうさせたかもしれない。巨大な鰊蕎麦のなかにアッシェンバッハ教授を泳がせるとか。
ニシン蕎麦のプールで、アッシェンバッハ教授は、こうおもうのだ。
これもまた、生だ。
(このアッシェンバッハ教授のポージングが好きで、むかし椅子に座りながらよくこのポーズを真似していた)
お白粉をつけて教授の鰊蕎麦 飯田良祐
この句についての小池さんの「人は白粉をつけ化粧することで日常とは次元の異なる世界にヴァージョン・アップする。それなのに、鰊蕎麦という日常次元にダウンしてしまう。その落差が何となくおかしい。」という記述を読んだときに、ふっと頭に浮かんだ映画=イメージがある。
ヴィスコンティの『ベニスに死す』だ。
映画『ベニスに死す』はかんたんにいえばひとりの中年男性がひとりの少年の背中を2時間11分追いかけつづける映画である。
中年男性のアッシェンバッハ教授がその少年のことを大好きになってしまったのかどうか、それはわからない。
ふたりは会話も交わさないし、アッシェンバッハ教授も内面を語らない。
つまり、ほんとうに、ひとりのにんげんがひとりのにんげんを追いかけるだけの映画なのだ。
ただ映画のなかで教授はなんどか境界線をふみこえる。
やっちゃったら、戻れないポイントをわかりやすく踏み越える。
ひとつの例が、化粧である。
教授は、理容店で乙女のような化粧を施されてしまうのだが、そして、みずからにうっとりし、オトメンになってしまうのだが、どうみても客観的には、道化やピエロ、あるいは死化粧にしかみえない。
しかし、教授は満足している。
(あれ、案外、いいかんじじゃね?)
(いいかんじじゃん!)
実は映画の冒頭に、やはり化粧をした教授そっくりの出で立ちの男がでてくる。教授は軽蔑した視線を投げかけるのだが、ストーキングの道程において、教授はついにその軽蔑していたはずの男に同化してしまう。
この化粧はいろんな意味をもつ。
死化粧としての、死へのプロセスの転換。
或いは、教授の女性ジェンダー化。
もしくは、教授が鏡でじぶんをみることにより、じぶんと少年の差異を発見してしまい、そのことにより、じぶんと少年の決定的懸隔を感じ、その距離によって滅ぼされる存在になってしまうこと。つまり、鏡からの距離の発見。
もしくは、化粧をしたことで、いままでまなざす存在だった教授は、道化的なまなざされる存在になり、まなざしとまなざされの視線の板挟みのなかで、〈みる〉ということの崩壊を引き受ける存在になってしまうこと。
(おなかいたい……)
女性も男性も、化粧をすることはいろんな境界線をめいめいの文脈にあわせてふみこえることだ。
飯田さんの句「お白粉をつけて教授」の教授が、男性か女性かは、わからない。
だから、小池さんの言葉のように、ここでの「お白粉」は〈日常のバージョンアップ〉であり、アッシェンバッハ教授がバージョンアップすることで、それまでとは自身の生き方が決定的に変えざるをえなくなったことともつながっている。アッシェンバッハ教授の場合は、終わりに向かっていった。
(鰊蕎麦……)
アッシェンバッハ教授は、〈食べる〉ことには、向かわなかった。
かれは、むしろ、自身の記憶や回想を〈食べる〉ことに向かい始めた。じしんがじしんの牢獄に入ることで、自壊していく過程を踏んだ。
でも飯田さんの句がむかったのは、「鰊蕎麦」である。
「鰊蕎麦」は、「鰊蕎麦」として自身の観念、じぶんの牢獄をうちくだく即物性がある。
〈食べる〉行為は、生のベクトルへ向かい直す契機となるのだから。
つまり、こういうことだ。
「化粧」にも「教授」にも、自分が自分を視つづける、あるいは自分が自分の知をサーチしつづける、視線と知識の牢獄がある。
でも、「鰊蕎麦」には、そうしたナルシシズムは、ない。
それはあくまで〈食べる〉ことなのだ。
ナルシシズムのような循環ベクトルではなく、食べて、からだにいれるという方向ベクトルである。
小池さんの「鰊蕎麦は日常次元へのダウン」ということばは、化粧による観念レベルからの身体レベルへの再帰をも意味している。
だから、アッシェンバッハ教授は、 鰊蕎麦を食べていたら、よかったのかもしれないともおもう。そうしたら彼は「ベニスに生きる」になってかもしれない。
貴族主義のヴィスコンティは、ノーというかもしれないけれど、祝祭的なフェリーニなら、喜んでそうさせたかもしれない。巨大な鰊蕎麦のなかにアッシェンバッハ教授を泳がせるとか。
ニシン蕎麦のプールで、アッシェンバッハ教授は、こうおもうのだ。
これもまた、生だ。
(このアッシェンバッハ教授のポージングが好きで、むかし椅子に座りながらよくこのポーズを真似していた)
- 関連記事
-
- 【感想】寄り道が好きで人間大好きで 三浦蒼鬼 (2015/01/03)
- 【感想】川柳と映画をめぐって、或いはお化粧をして街へ出よう (2015/02/27)
- 【感想】家庭科で何かを織ったことがある 津田暹 (2015/10/19)
- 【感想】立ち上がる熊にんげんの背中して 八上桐子 (2014/10/03)
- 【感想】悲しくてあなたの手話がわからない 月波与生 (2014/04/25)
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の川柳感想