【感想】家かしら、ここ。部屋のまま、漂流してる。梨とわたしと子猫をのせて 岸原さや
- 2014/05/20
- 05:54
家かしら、ここ。部屋のまま、漂流してる。梨とわたしと子猫をのせて 岸原さや
【漂流する語り手-リビング・ルームのロビンソン・クルーソー-】
岸原さやさんの歌集『声、あるいは音のような』からの一首です。
この短歌のふしぎさについてずっとかんがえていました。
ひとつのふしぎさは、この短歌の出だしの「家かしら、ここ」という自分に対する疑問を投げかける終助詞「かしら」のついた語り手の語りだし方そのものにあるようにおもいます。
「ここ」といみじくも語り手が発話しているように、語り手はとつぜん意識に覚醒したように、nowhere(どこでもない場所)から「ここ」は「家」ではないかと推定しようとしています。
つまり、語り手の意識はこの短歌がはじまる前においては、無意識だったのではないか、ということがかんがえられるのではないかとおもうんです。語り手のかんがえていた「ここ」と、いまある「ここ」のズレを察知し、とつぜん覚醒し、発話したのです。
これはすごくふしぎな状況だとおもいます。語り手はどういうわけか、「ここ」がいまの「ここ」であることにきづいていなかった、もしくは勘違いしていた。しかし、「かしら」が示すようにまだ語り手にとって「ここ」は漂流したままです。
この短歌のふたつめのふしぎな点は、「家かしら、ここ。」と「ここ」を推定しようとした語り手が、「部屋のまま、漂流してる」ことを確定し、その「漂流」している「部屋」に「のせ」られている「梨とわたしと子猫」に語り手の意識がうつっていく点です。
なぜ、ふしぎにかんじるのだろう、とかんがえてみました。それはこうなのではないでしょうか。
「家かしら、ここ」と語る語り手はあきらかに「家」の内部にいます。外にいたなら「家」だとわかるからです。しかし、家の内部なので、自信がない。だから、「かしら」です。しかし次の瞬間、語り手は、「部屋のまま、漂流してる」と知覚します。この知覚は、もちろん部屋の内部から知覚しているとおもわれるのですが、しかし、「漂流」というのは〈外部〉からの視点です。部屋の内部にいて「漂流」という知覚は部屋を相対化できるような〈外〉からの客観的視点を語り手がもてない限り、発話できないだろうとおもうのです。
つまり、「部屋のまま、漂流してる」において、わたしは語り手が「、」という読点を境目として、内と外という多重化した意識を節合しているのではないかとおもうのです。語り手は、外部にいつつ、内部にいます。実は上の句で「ここ」と発話したのは、語り手のそのような境界としての多重化した場所から知覚していることのうらがえった意識のようにおもうのです。語り手はいま「ここ」と特定できないような場所にいます。それは、「ここ」が内包できない、こことそこという内と外の節合点です。そういった節合地点から「ここ」を語ろうとした語り手の〈漂流〉する意識のありかたがわたしはこのふしぎなひとつの魅力のようにおもいます。もちろん、これはひとつのあくまで可能性です。しかし、わたしが感じたふしぎなおもしろさをあえてことばにあらわしてみるならば、そのようにもわたしは感じていたのかなとおもいました。
さいごに、もうひとつだけ、この短歌にはふしぎなことがあって、それは下の句において「梨とわたしと子猫」を並置していることです。梨とわたしと子猫は、記号的等価として漂流しています。もしかしたら、この短歌の言説において、梨はわたしであり、わたしは子猫であり、子猫は梨であるのかもしれません。というよりも、境界としての節合地点にいる語り手にとっては、〈わたし〉という存在も、「梨」や「子猫」のように対象化できるほどに〈わたし〉から離れた場所にいるのかもしれないともおもいます。つまり、語り手は〈わたし〉からさえ離れて漂流しています。
語り手は、どこにいるんだろう。発話主体としての語り手そのものがこのうたにおいては、〈漂流〉しているのではないか。
それが、わたしがこのうたから感じたふしぎなおもしろさでした。
ああ、だからここにおります廃駅のまばゆいひかりに溶けだしながら 岸原さや
【漂流する語り手-リビング・ルームのロビンソン・クルーソー-】
岸原さやさんの歌集『声、あるいは音のような』からの一首です。
この短歌のふしぎさについてずっとかんがえていました。
ひとつのふしぎさは、この短歌の出だしの「家かしら、ここ」という自分に対する疑問を投げかける終助詞「かしら」のついた語り手の語りだし方そのものにあるようにおもいます。
「ここ」といみじくも語り手が発話しているように、語り手はとつぜん意識に覚醒したように、nowhere(どこでもない場所)から「ここ」は「家」ではないかと推定しようとしています。
つまり、語り手の意識はこの短歌がはじまる前においては、無意識だったのではないか、ということがかんがえられるのではないかとおもうんです。語り手のかんがえていた「ここ」と、いまある「ここ」のズレを察知し、とつぜん覚醒し、発話したのです。
これはすごくふしぎな状況だとおもいます。語り手はどういうわけか、「ここ」がいまの「ここ」であることにきづいていなかった、もしくは勘違いしていた。しかし、「かしら」が示すようにまだ語り手にとって「ここ」は漂流したままです。
この短歌のふたつめのふしぎな点は、「家かしら、ここ。」と「ここ」を推定しようとした語り手が、「部屋のまま、漂流してる」ことを確定し、その「漂流」している「部屋」に「のせ」られている「梨とわたしと子猫」に語り手の意識がうつっていく点です。
なぜ、ふしぎにかんじるのだろう、とかんがえてみました。それはこうなのではないでしょうか。
「家かしら、ここ」と語る語り手はあきらかに「家」の内部にいます。外にいたなら「家」だとわかるからです。しかし、家の内部なので、自信がない。だから、「かしら」です。しかし次の瞬間、語り手は、「部屋のまま、漂流してる」と知覚します。この知覚は、もちろん部屋の内部から知覚しているとおもわれるのですが、しかし、「漂流」というのは〈外部〉からの視点です。部屋の内部にいて「漂流」という知覚は部屋を相対化できるような〈外〉からの客観的視点を語り手がもてない限り、発話できないだろうとおもうのです。
つまり、「部屋のまま、漂流してる」において、わたしは語り手が「、」という読点を境目として、内と外という多重化した意識を節合しているのではないかとおもうのです。語り手は、外部にいつつ、内部にいます。実は上の句で「ここ」と発話したのは、語り手のそのような境界としての多重化した場所から知覚していることのうらがえった意識のようにおもうのです。語り手はいま「ここ」と特定できないような場所にいます。それは、「ここ」が内包できない、こことそこという内と外の節合点です。そういった節合地点から「ここ」を語ろうとした語り手の〈漂流〉する意識のありかたがわたしはこのふしぎなひとつの魅力のようにおもいます。もちろん、これはひとつのあくまで可能性です。しかし、わたしが感じたふしぎなおもしろさをあえてことばにあらわしてみるならば、そのようにもわたしは感じていたのかなとおもいました。
さいごに、もうひとつだけ、この短歌にはふしぎなことがあって、それは下の句において「梨とわたしと子猫」を並置していることです。梨とわたしと子猫は、記号的等価として漂流しています。もしかしたら、この短歌の言説において、梨はわたしであり、わたしは子猫であり、子猫は梨であるのかもしれません。というよりも、境界としての節合地点にいる語り手にとっては、〈わたし〉という存在も、「梨」や「子猫」のように対象化できるほどに〈わたし〉から離れた場所にいるのかもしれないともおもいます。つまり、語り手は〈わたし〉からさえ離れて漂流しています。
語り手は、どこにいるんだろう。発話主体としての語り手そのものがこのうたにおいては、〈漂流〉しているのではないか。
それが、わたしがこのうたから感じたふしぎなおもしろさでした。
ああ、だからここにおります廃駅のまばゆいひかりに溶けだしながら 岸原さや
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