【お知らせ】「第五夜 びいいいいいっとした夢」『夢八夜』
- 2015/03/04
- 22:29
WEBマガジン『アパートメント』にて連載『夢八夜』第五回目の「第五夜 びいいいいいっとした夢」という掌編を載せていただきました。
もしお時間のあるときにお読みいただければ、さいわいです。
レビューを担当してくださっている岡田陽恵さんが次のようなレビューを書いてくださいました。岡田さん、いつもすてきなレビューを書いてくださって、ありがとうございます。
私もあなたもあなたの大切な誰かもいつか死ぬ。
いつか自分が死んだとき、もしかしたらそれを受け入れられないときにこの夢を思い出したい。
今回のゆめは樋口由紀子さんの川柳から展開されるゆめです。樋口さんの川柳を読んでいていつも思うのは、ことばや表現っていうのはある境界線を引く行為、引き直す行為なんだなということです。
世界にはあらかじめたくさんの暗黙の境界線が引かれてしまっているけれど、ひとは表現することによってその境界線を引き直すことができる。
もしくはあらかじめある境界線とクロスさせた線を引くことによってあたらしい、それまでなかったような絵をたちあげることができる。
それはいままでのわたしに対してもうひとつの線を引くことでちがったわたしをつくりあげていくこともそうだし、だれかの線に対してこのわたしから線をひくこともそうです。
表現は、つねに、なにか〈について〉の表現であり、その意味で、すべての表現はけっきょくのところメタ表現にならざるをえないのではないかとすら、おもったりもします。
そしてそのすべての表現にまつわる〈について〉性こそが、〈線〉といえるものじゃないかと。
はじめて樋口さんの句集を読んだ日から、いままでの期間をふりかえりあらためて樋口さんの川柳をかんがえたときにわたしが考えていたのはそういったことでした。
だから、樋口さんの句には〈わたし〉がいない。線としての言語がある。けれどその線としての言語によって、たくさんの主体がたちあがってくる。それは未来のわたしかもしれないし、語り落とされてきた過去のわたしという主体かもしれない。いまここで眼にみえないわたしの主体かもしれない。
わたしというのは履歴的で私小説的なわたしではなく、そうしたことばとしてたちあがる場合もあるのではないか。
それは樋口さんがクレヨンを句に引き入れたように、線で構成される絵もどこかで通底しているのではないか。○にならない、しかしたくさんの可能性をふくんだ○として。□になりそこねた、しかし多くの□を予期する□として。
長いあとがきになってしまいましたが、そんなことをかんがえながらこんかいの夢を描いてみました。
次回のゆめは、日常的なことばだけで構成されているのに、しかしその日常的なことばがなぜかもうひとつの次元の違うディメンションをたちあげていくというそういう高野文子的な方からみたゆめになります。
わたしはこの方の本を読んでいて、高野文子さんのマンガを思い浮かべていたんですが、たぶんおふたりに通底しているのはそうした日常の素材がそのまま非日常の次元に通底しているということだったのではないかとおもいます。
次回、3月11日「第六夜 オクムラくんとミッコさんと闇シャンプーをさがす」。みんなでさがしてみたいとおもいます。
もしお時間のあるときにお読みいただければ、さいわいです。
レビューを担当してくださっている岡田陽恵さんが次のようなレビューを書いてくださいました。岡田さん、いつもすてきなレビューを書いてくださって、ありがとうございます。
私もあなたもあなたの大切な誰かもいつか死ぬ。
いつか自分が死んだとき、もしかしたらそれを受け入れられないときにこの夢を思い出したい。
今回のゆめは樋口由紀子さんの川柳から展開されるゆめです。樋口さんの川柳を読んでいていつも思うのは、ことばや表現っていうのはある境界線を引く行為、引き直す行為なんだなということです。
世界にはあらかじめたくさんの暗黙の境界線が引かれてしまっているけれど、ひとは表現することによってその境界線を引き直すことができる。
もしくはあらかじめある境界線とクロスさせた線を引くことによってあたらしい、それまでなかったような絵をたちあげることができる。
それはいままでのわたしに対してもうひとつの線を引くことでちがったわたしをつくりあげていくこともそうだし、だれかの線に対してこのわたしから線をひくこともそうです。
表現は、つねに、なにか〈について〉の表現であり、その意味で、すべての表現はけっきょくのところメタ表現にならざるをえないのではないかとすら、おもったりもします。
そしてそのすべての表現にまつわる〈について〉性こそが、〈線〉といえるものじゃないかと。
はじめて樋口さんの句集を読んだ日から、いままでの期間をふりかえりあらためて樋口さんの川柳をかんがえたときにわたしが考えていたのはそういったことでした。
だから、樋口さんの句には〈わたし〉がいない。線としての言語がある。けれどその線としての言語によって、たくさんの主体がたちあがってくる。それは未来のわたしかもしれないし、語り落とされてきた過去のわたしという主体かもしれない。いまここで眼にみえないわたしの主体かもしれない。
わたしというのは履歴的で私小説的なわたしではなく、そうしたことばとしてたちあがる場合もあるのではないか。
それは樋口さんがクレヨンを句に引き入れたように、線で構成される絵もどこかで通底しているのではないか。○にならない、しかしたくさんの可能性をふくんだ○として。□になりそこねた、しかし多くの□を予期する□として。
長いあとがきになってしまいましたが、そんなことをかんがえながらこんかいの夢を描いてみました。
次回のゆめは、日常的なことばだけで構成されているのに、しかしその日常的なことばがなぜかもうひとつの次元の違うディメンションをたちあげていくというそういう高野文子的な方からみたゆめになります。
わたしはこの方の本を読んでいて、高野文子さんのマンガを思い浮かべていたんですが、たぶんおふたりに通底しているのはそうした日常の素材がそのまま非日常の次元に通底しているということだったのではないかとおもいます。
次回、3月11日「第六夜 オクムラくんとミッコさんと闇シャンプーをさがす」。みんなでさがしてみたいとおもいます。
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