【感想】記憶の漂流者としての小島ゆかりと小津夜景
- 2015/03/05
- 01:29
出発の春は寒くて手を握るきつと忘れてしまふだれかと 小島ゆかり
【積極的漂流者であること】
さいきんまた眠れないときに小津夜景さんの句集を読んでいたりするんですが、夜景さんの句にこんな句があります。
はつやまい発語のたびの迷子かな 小津夜景
この夜景さんの句、小島ゆかりさんの句と響き合っている部分があるようにおもうんです。
ゆかりさんの歌では、「手を握る」という行為が「忘れてしまふだれか」に結びついています。
手を握るんだけれど、それが記憶や痕跡にならない。
それは忘れるということにつながっていってしまう。
手を握ることが、記憶することにはならない。
でもそこで大事なことは、かんたんに記憶にしてしまわないということではないかとおもうのです。
忘れる、ということは決してネガティヴなことではない。
むしろ、記憶し、そのひとを形式化し、形骸化させてしまうことが、そのひとを〈殺し〉てしまう場合もある。
手を握ったそのひとのことを「きっと」忘れてしまうかもしれない。
「きっと」忘れちゃうのかもしれないけれど、でも記憶も痕跡もさせないかたちでその手を握った「だれか」を「だれか」のままにとどめておく。そのままにしておく。
それはそれでひとつのスペシャルな〈記憶〉のありかたなのではないかとおもうのです。
つまり、そのひとの〈そのひと性〉はちゃんと残しておく。
わたしの記憶のシステムのなかに懐柔させないということです。
夜景さんの句では「発語のたびの迷子かな」といっています。
しゃべるたびに、迷子になること。
この句の語り手にとっては、ゆかりさんの歌の手を握ることが記憶することにはならなかったように、ことばがやはり記憶や痕跡には結びついてはいけない。
それは〈ことば〉をわたしのことばのシステムのなかにやはり勝手に懐柔し、コントロールしてしまわないことなのではないかと、おもいます。
だからことばを使うたびに、ことばの意味表現と意味内容を一致させることもできず、ことばの語り手は〈迷子〉になる。
でもそのことによってはじめてつかえることばが、ある。ことばの、ことば性が、あらわれてくることがある。
ゆかりさんの歌でいえば、そのひとが、〈そのひと〉としてあらわれてくるしゅんかんです。
ゆかりさんの歌と、夜景さんの句は、そうした〈そのひと〉〈そのことば〉をこちら側の論理で手なずけないように〈そのひと〉として〈そのことば〉として立ち上げようとしている歌や句なのではないかとおもうのです。
記憶の漂流者には、記憶の漂流者の特権があるということです。
デラシネだどんなたましひでも抱いた 小津夜景
【積極的漂流者であること】
さいきんまた眠れないときに小津夜景さんの句集を読んでいたりするんですが、夜景さんの句にこんな句があります。
はつやまい発語のたびの迷子かな 小津夜景
この夜景さんの句、小島ゆかりさんの句と響き合っている部分があるようにおもうんです。
ゆかりさんの歌では、「手を握る」という行為が「忘れてしまふだれか」に結びついています。
手を握るんだけれど、それが記憶や痕跡にならない。
それは忘れるということにつながっていってしまう。
手を握ることが、記憶することにはならない。
でもそこで大事なことは、かんたんに記憶にしてしまわないということではないかとおもうのです。
忘れる、ということは決してネガティヴなことではない。
むしろ、記憶し、そのひとを形式化し、形骸化させてしまうことが、そのひとを〈殺し〉てしまう場合もある。
手を握ったそのひとのことを「きっと」忘れてしまうかもしれない。
「きっと」忘れちゃうのかもしれないけれど、でも記憶も痕跡もさせないかたちでその手を握った「だれか」を「だれか」のままにとどめておく。そのままにしておく。
それはそれでひとつのスペシャルな〈記憶〉のありかたなのではないかとおもうのです。
つまり、そのひとの〈そのひと性〉はちゃんと残しておく。
わたしの記憶のシステムのなかに懐柔させないということです。
夜景さんの句では「発語のたびの迷子かな」といっています。
しゃべるたびに、迷子になること。
この句の語り手にとっては、ゆかりさんの歌の手を握ることが記憶することにはならなかったように、ことばがやはり記憶や痕跡には結びついてはいけない。
それは〈ことば〉をわたしのことばのシステムのなかにやはり勝手に懐柔し、コントロールしてしまわないことなのではないかと、おもいます。
だからことばを使うたびに、ことばの意味表現と意味内容を一致させることもできず、ことばの語り手は〈迷子〉になる。
でもそのことによってはじめてつかえることばが、ある。ことばの、ことば性が、あらわれてくることがある。
ゆかりさんの歌でいえば、そのひとが、〈そのひと〉としてあらわれてくるしゅんかんです。
ゆかりさんの歌と、夜景さんの句は、そうした〈そのひと〉〈そのことば〉をこちら側の論理で手なずけないように〈そのひと〉として〈そのことば〉として立ち上げようとしている歌や句なのではないかとおもうのです。
記憶の漂流者には、記憶の漂流者の特権があるということです。
デラシネだどんなたましひでも抱いた 小津夜景
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