【短歌】並びしなきみをかすめたぼくの手でなめらかに咲く満身創痍
- 2014/05/21
- 06:46
並びしなきみをかすめたぼくの手でなめらかに咲く満身創痍 柳本々々
(連作「にんげんのことば」『かばん』2013年12月号)
【表現主体としてのいかがわしい〈僕〉とはなんだったのか】
『かばん』2014年2月号にて温井ねむさんから次のようなていねいな評をいただいた。
ぼくの手によってきみに満身創痍が咲く、つまりぼくの手できみを傷つけるという歌だろうか。傷は想像上のものだろうが、ひびやあかぎれのように小さな裂傷が無数に皮ふを覆いながら咲く様子が目に浮かぶ。それがいま列に並んでいるきみの寛いだ様子や、衣服によって隠された肌の美しさを引き立てる。「かすめる」にはすれすれで過ぎるという意味と、盗む、目を盗んでなにかをするという意味がある。それがダブルミーニングになっていて、きみが気づきもしないようなわずかな接触のあいだにわたしはきみを奪ったということなのだろう。
温井ねむ「十二月号評」『かばん』2014/2
温井さんからことばをいただいて気づいたのは、「かすめる」というのが「すれすれで過ぎる」という意味にくわえて「盗む」という意味も担っていたことだ。
つまりこの「ぼく」という語り手はその意味で「傷」としての「満身創痍」を介しながらもある意味したたかなことをしているということになる。となると「満身創痍」というやや大げさな結句も語り手である「ぼく」がそうしたみずからの行為の「瑕(きず)」を隠すために採用したことばのような気がしないでもない。そんなことを考えているうちに温井さんが書いてくれた「ダブルミーニング」というのは「ぼく」という主体のそうした二重性・隠蔽性と関係しているのかもしれないとかんがえはじめた。
以前から「ぼく」という主体にとても興味がある。村上春樹の初期の小説では、ほとんどの場合において、主語が「僕」なのだが、そういった表現行為における「僕」としての役割はどんなふうにかんがえたらいいのだろうと。
「僕」とは「私」という主語に較べ、関係的に選択される主語である。「僕」は話しかけている相手とそれほど距離のあいた間柄ではなく、また幾分相手に対して男性ジェンダーを意識している存在であり、「私」で述べるような公の言説からも逸れる存在としている。「僕」は「私」よりも関係的であると同時に私的でもある。
つまり、「僕」とは相手との関係性から派生した主語でありつつも・同時に相手との距離感において私的言説を繰り広げることのできる主語としての装置でもある。かんたんにいうと、「僕」は相手に「隠しているんだよ」という意識もなく「隠すことができる」。相手と関係をまさぐりながらも、関係性を潜在的に放棄している主語が「僕」という主語のひとつの役割ではないかとおもうことがある。村上春樹の「僕」が多用するのは「やれやれ」である。「やれやれ」という「感嘆・落胆」の感動詞は、他者に対する応答であると同時に、「感嘆・落胆」という応答をみずからの孤独な感覚におとしこんでいく感動詞でもある。「やれやれ」とはそういった意味で、他者のアクションを自らの〈内面〉のなかに関わりつつも等身大で受け取りきれなかった行為としてろ過する装置のようなものだ。
柄谷行人は、村上春樹の「僕」とは決して経験的な「僕」ではないという。経験から学ぶ人間なのではなく、あるすべてを超えた地平からみずからの根拠のない判断にしたがってがしがしと決めつけていく超越論的「僕」が村上春樹の「僕」なのだと。
しかし、そのような超越論的「僕」は、「僕」という他者とかかわりつつも私性におとしこんでくような変圧器としての主語によって、やわらかく隠されていたのではないかとわたしはおもう。超越論的「僕」は、超越した地平にいながらも「やれやれ」と他者に感受してみせるからだ。
温井さんの「ダブルミーニング」ということばからそんなふうな「僕」という主体のややこしさをかんがえてみた。
最後になりますが、温井ねむさん、ていねいな評を書いていただき、ありがとうございました。
思うこと特になき日に飛び石が会うべき人の臍へとつづく 温井ねむ
村上春樹の「僕」は、カントの『純粋理性批判』を“正確に”読んでいるといってもいい。「僕」は、一切の判断を趣味、したがって「独断と偏見」にすぎないとみなす、ある超越論的な主観なのである。それは経験的な主観(自己)ではない。村上の作品はきわめて私的な印象を与えるのだが、私小説ではない。私小説が前提しているような経験的な「私」が否定されているからだ。「私」は散乱している。しかし、ここにはそれら散乱した「私」を冷やかに見つめる超越論的な自己がある。大江健三郎の「僕」が、言語のアレゴリー的な横断やずれをもたらす装置であるのに対して、村上春樹の作品においては、言語はこの超越論的主観によってつねに統御されている。言語は散乱しているように見えるが、それはただこの超越論的主観の確実さを逆証するためでしかない。
柄谷行人『終焉をめぐって』
僕は台所に新しい缶ビールを取りに行った。階段の前を通る時に鏡が見えた。もう一人の僕もやはり新しいビールを取りに行くところだった。我々は顔を見合わせてため息をついた。我々は違う世界に住んで、同じようなことを考えている。まるで「ダック・スープ」のグルーチョ・マルクスとハーポ・マルクスみたいに。
村上春樹『羊をめぐる冒険』
(連作「にんげんのことば」『かばん』2013年12月号)
【表現主体としてのいかがわしい〈僕〉とはなんだったのか】
『かばん』2014年2月号にて温井ねむさんから次のようなていねいな評をいただいた。
ぼくの手によってきみに満身創痍が咲く、つまりぼくの手できみを傷つけるという歌だろうか。傷は想像上のものだろうが、ひびやあかぎれのように小さな裂傷が無数に皮ふを覆いながら咲く様子が目に浮かぶ。それがいま列に並んでいるきみの寛いだ様子や、衣服によって隠された肌の美しさを引き立てる。「かすめる」にはすれすれで過ぎるという意味と、盗む、目を盗んでなにかをするという意味がある。それがダブルミーニングになっていて、きみが気づきもしないようなわずかな接触のあいだにわたしはきみを奪ったということなのだろう。
温井ねむ「十二月号評」『かばん』2014/2
温井さんからことばをいただいて気づいたのは、「かすめる」というのが「すれすれで過ぎる」という意味にくわえて「盗む」という意味も担っていたことだ。
つまりこの「ぼく」という語り手はその意味で「傷」としての「満身創痍」を介しながらもある意味したたかなことをしているということになる。となると「満身創痍」というやや大げさな結句も語り手である「ぼく」がそうしたみずからの行為の「瑕(きず)」を隠すために採用したことばのような気がしないでもない。そんなことを考えているうちに温井さんが書いてくれた「ダブルミーニング」というのは「ぼく」という主体のそうした二重性・隠蔽性と関係しているのかもしれないとかんがえはじめた。
以前から「ぼく」という主体にとても興味がある。村上春樹の初期の小説では、ほとんどの場合において、主語が「僕」なのだが、そういった表現行為における「僕」としての役割はどんなふうにかんがえたらいいのだろうと。
「僕」とは「私」という主語に較べ、関係的に選択される主語である。「僕」は話しかけている相手とそれほど距離のあいた間柄ではなく、また幾分相手に対して男性ジェンダーを意識している存在であり、「私」で述べるような公の言説からも逸れる存在としている。「僕」は「私」よりも関係的であると同時に私的でもある。
つまり、「僕」とは相手との関係性から派生した主語でありつつも・同時に相手との距離感において私的言説を繰り広げることのできる主語としての装置でもある。かんたんにいうと、「僕」は相手に「隠しているんだよ」という意識もなく「隠すことができる」。相手と関係をまさぐりながらも、関係性を潜在的に放棄している主語が「僕」という主語のひとつの役割ではないかとおもうことがある。村上春樹の「僕」が多用するのは「やれやれ」である。「やれやれ」という「感嘆・落胆」の感動詞は、他者に対する応答であると同時に、「感嘆・落胆」という応答をみずからの孤独な感覚におとしこんでいく感動詞でもある。「やれやれ」とはそういった意味で、他者のアクションを自らの〈内面〉のなかに関わりつつも等身大で受け取りきれなかった行為としてろ過する装置のようなものだ。
柄谷行人は、村上春樹の「僕」とは決して経験的な「僕」ではないという。経験から学ぶ人間なのではなく、あるすべてを超えた地平からみずからの根拠のない判断にしたがってがしがしと決めつけていく超越論的「僕」が村上春樹の「僕」なのだと。
しかし、そのような超越論的「僕」は、「僕」という他者とかかわりつつも私性におとしこんでくような変圧器としての主語によって、やわらかく隠されていたのではないかとわたしはおもう。超越論的「僕」は、超越した地平にいながらも「やれやれ」と他者に感受してみせるからだ。
温井さんの「ダブルミーニング」ということばからそんなふうな「僕」という主体のややこしさをかんがえてみた。
最後になりますが、温井ねむさん、ていねいな評を書いていただき、ありがとうございました。
思うこと特になき日に飛び石が会うべき人の臍へとつづく 温井ねむ
村上春樹の「僕」は、カントの『純粋理性批判』を“正確に”読んでいるといってもいい。「僕」は、一切の判断を趣味、したがって「独断と偏見」にすぎないとみなす、ある超越論的な主観なのである。それは経験的な主観(自己)ではない。村上の作品はきわめて私的な印象を与えるのだが、私小説ではない。私小説が前提しているような経験的な「私」が否定されているからだ。「私」は散乱している。しかし、ここにはそれら散乱した「私」を冷やかに見つめる超越論的な自己がある。大江健三郎の「僕」が、言語のアレゴリー的な横断やずれをもたらす装置であるのに対して、村上春樹の作品においては、言語はこの超越論的主観によってつねに統御されている。言語は散乱しているように見えるが、それはただこの超越論的主観の確実さを逆証するためでしかない。
柄谷行人『終焉をめぐって』
僕は台所に新しい缶ビールを取りに行った。階段の前を通る時に鏡が見えた。もう一人の僕もやはり新しいビールを取りに行くところだった。我々は顔を見合わせてため息をついた。我々は違う世界に住んで、同じようなことを考えている。まるで「ダック・スープ」のグルーチョ・マルクスとハーポ・マルクスみたいに。
村上春樹『羊をめぐる冒険』
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