線の冒険家になるための手記、としてのあとがき。
- 2015/03/08
- 22:28
『角川俳句』2015年3月号における関悦史さんの「現代俳句時評3 近代文学の終りと俳句」において、外山一機さん、福田若之さん、小津夜景さん、堀下翔さん、生駒大祐さんのお名前とともに言及していただきました。
関さん、ありがとうございました!
関さんはこの記事において、「現在、俳句に関する論評活動のかなりの部分がネットに場を移してしまっており、そちらが視野に入っているかどうかで見えている風景が全然違ってくる」と指摘されています。
ネットの言説というのは、基本的にパッケージングされた雑誌媒体と違い、みずから体系化し、コラージュしてゆくしかありません。
すこし冒険的ないいかたをしてみるならば、みずから〈冒険家〉になり、〈冒険地〉を定め、ときに滞留し、深く散策し、ときに飛躍し、思いがけない遭難をし、新たな情報にぶつかっては、そこから過去にさかのぼりじぶんなりに体系を再体系化しなおす作業が求められるんじゃないかと、おもいます。
ネットの言説体系のリミットは、だれも決めてはくれません。
書物という媒体と違い、ここからが始まりで、ここからが終わりという境界線が、ない。
その境界線も、他の体系との兼ね合いで日々変わる、生き物のような境界線であり、ですから生成し、消滅する海辺のような場所が、ネットの言説だともいえます。
実はもはや書物のリミットは消え失せており、書物もネット言説との照応関係のなかでそのつど書物自身の境界線をつくりつづけているんじゃないかなとかんがえることもあります。
たとえばかんたんな例をとれば、わたしたちはなにか本を買うときに、ネットの感想を参考にしたりすることがあります。
そのときネットに書かれたことばが、本に書かれていることばと参照しあい、意味の境界を決めてゆくということです。
関さんのタイトルにある「近代文学の終り」を自分なりのことばで言い換えれば、〈方向性の喪失による全方位コンテンツの発生〉ということなのかなあ、とおもいます。
つまり、だれもそこに、文学っていうのはこういうことだよ、近代っていうのはこういうことだよ、批評っていうのはこういうことだよ、短歌/俳句/川柳というのはこういうことだよ、というライン=線を引けなくなるということです。大きな線の喪失=終わりといってもいいかもしれません。
だからこそ、じぶんで〈小さな線〉を引いていくことが大事なようにおもうんです。
堀下翔さんが『週刊俳句』のバックナンバーについて言及されていたように、じゃあ自分でひとまず小さな線として『週刊俳句』のバックナンバーをたどってみるという線を引いてみる。
そのなかで、リンクのように浮かび上がってくる、多数の線がまたみえてきたら、そのなかから選択してみる。
そうした線の冒険家になることが、大事なようにもおもうんです。
ネットと現実の循環化する循環、再帰的再帰性のなかで、どこで〈線〉を引くのか。
ネット生中継頭に石が当たる 関悦史
関さん、ありがとうございました!
関さんはこの記事において、「現在、俳句に関する論評活動のかなりの部分がネットに場を移してしまっており、そちらが視野に入っているかどうかで見えている風景が全然違ってくる」と指摘されています。
ネットの言説というのは、基本的にパッケージングされた雑誌媒体と違い、みずから体系化し、コラージュしてゆくしかありません。
すこし冒険的ないいかたをしてみるならば、みずから〈冒険家〉になり、〈冒険地〉を定め、ときに滞留し、深く散策し、ときに飛躍し、思いがけない遭難をし、新たな情報にぶつかっては、そこから過去にさかのぼりじぶんなりに体系を再体系化しなおす作業が求められるんじゃないかと、おもいます。
ネットの言説体系のリミットは、だれも決めてはくれません。
書物という媒体と違い、ここからが始まりで、ここからが終わりという境界線が、ない。
その境界線も、他の体系との兼ね合いで日々変わる、生き物のような境界線であり、ですから生成し、消滅する海辺のような場所が、ネットの言説だともいえます。
実はもはや書物のリミットは消え失せており、書物もネット言説との照応関係のなかでそのつど書物自身の境界線をつくりつづけているんじゃないかなとかんがえることもあります。
たとえばかんたんな例をとれば、わたしたちはなにか本を買うときに、ネットの感想を参考にしたりすることがあります。
そのときネットに書かれたことばが、本に書かれていることばと参照しあい、意味の境界を決めてゆくということです。
関さんのタイトルにある「近代文学の終り」を自分なりのことばで言い換えれば、〈方向性の喪失による全方位コンテンツの発生〉ということなのかなあ、とおもいます。
つまり、だれもそこに、文学っていうのはこういうことだよ、近代っていうのはこういうことだよ、批評っていうのはこういうことだよ、短歌/俳句/川柳というのはこういうことだよ、というライン=線を引けなくなるということです。大きな線の喪失=終わりといってもいいかもしれません。
だからこそ、じぶんで〈小さな線〉を引いていくことが大事なようにおもうんです。
堀下翔さんが『週刊俳句』のバックナンバーについて言及されていたように、じゃあ自分でひとまず小さな線として『週刊俳句』のバックナンバーをたどってみるという線を引いてみる。
そのなかで、リンクのように浮かび上がってくる、多数の線がまたみえてきたら、そのなかから選択してみる。
そうした線の冒険家になることが、大事なようにもおもうんです。
ネットと現実の循環化する循環、再帰的再帰性のなかで、どこで〈線〉を引くのか。
ネット生中継頭に石が当たる 関悦史
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