【感想】そこだけはおへそのように明るくてほんの僅かに息をしている 澤田順
- 2015/03/09
- 23:58
そこだけはおへそのように明るくてほんの僅かに息をしている 澤田順
【へそほどの、しかし、へそほどもある】
一晩、かんがえてみたんですが、「おへそ」って「明るく」はないとおもうんですよ。
でも、語り手は「のように明るくて」と、「のように」でおへそと明るさをつないでいます。
なぜ、か。
これは「明るくて」の「て」という連接される助詞にヒントがあります。
「明るく」《て》「ほんの僅かに息をしている」と明るさと並列されているのが、「息をしている」ことです。
息をしている。生きている、ということです。
つまり、語り手にとっての明るさや暗さの明暗は、生きていることの明るさと暗さなのではないかということができます。
いま、生きていること。それが、語り手にとっての明度です。
おへそは、エヴァンゲリオンにとって「へそのお(アンビリカルケーブル)」がエネルギー減だったように「いのち」の源です。
だから、語り手にとっては、明るい。
ここからひるがえってこの歌のわたしが思ういちばん大事なことばに舞い戻ってみたいとおもいます。
それは、「そこ」です。「そこだけが」です。
「そこだけが」。極度に限定されたかなり強い言い方です。そこ以外はそこではありません。「そこだけ」しかないのです。「そこだけ」しか「明る」くないのです。
つまり、この歌は逆にいえば、めちゃくちゃ〈暗い〉歌なのです。語り手は、暗さのまっただなかにいる。まっくらい。
でも語り手にとっては「へそ」のようなわずかなスポットだけれど〈生命の明るさ〉を発見することができた。
そして「そこだけ」を言語化することによって、語り手自身は〈明るさ〉のまっただなかに息づくことになった。
これはそうした「へそ」ほどの、しかし「へそ」ほどもある、生きる明るさを見いだした歌なのではないかとおもうのです。
ふしぎなのは、へそが明るかったことではありません。
むしろ、全方位暗さの語り手の場所をへそにスポットをあてたことで、明るさのまっただなかをうみだした、この反転するへそとしての不可思議なのです。
明日あると思う心の不可思議に空を浮かべて歩いてゆかん 澤田順
【へそほどの、しかし、へそほどもある】
一晩、かんがえてみたんですが、「おへそ」って「明るく」はないとおもうんですよ。
でも、語り手は「のように明るくて」と、「のように」でおへそと明るさをつないでいます。
なぜ、か。
これは「明るくて」の「て」という連接される助詞にヒントがあります。
「明るく」《て》「ほんの僅かに息をしている」と明るさと並列されているのが、「息をしている」ことです。
息をしている。生きている、ということです。
つまり、語り手にとっての明るさや暗さの明暗は、生きていることの明るさと暗さなのではないかということができます。
いま、生きていること。それが、語り手にとっての明度です。
おへそは、エヴァンゲリオンにとって「へそのお(アンビリカルケーブル)」がエネルギー減だったように「いのち」の源です。
だから、語り手にとっては、明るい。
ここからひるがえってこの歌のわたしが思ういちばん大事なことばに舞い戻ってみたいとおもいます。
それは、「そこ」です。「そこだけが」です。
「そこだけが」。極度に限定されたかなり強い言い方です。そこ以外はそこではありません。「そこだけ」しかないのです。「そこだけ」しか「明る」くないのです。
つまり、この歌は逆にいえば、めちゃくちゃ〈暗い〉歌なのです。語り手は、暗さのまっただなかにいる。まっくらい。
でも語り手にとっては「へそ」のようなわずかなスポットだけれど〈生命の明るさ〉を発見することができた。
そして「そこだけ」を言語化することによって、語り手自身は〈明るさ〉のまっただなかに息づくことになった。
これはそうした「へそ」ほどの、しかし「へそ」ほどもある、生きる明るさを見いだした歌なのではないかとおもうのです。
ふしぎなのは、へそが明るかったことではありません。
むしろ、全方位暗さの語り手の場所をへそにスポットをあてたことで、明るさのまっただなかをうみだした、この反転するへそとしての不可思議なのです。
明日あると思う心の不可思議に空を浮かべて歩いてゆかん 澤田順
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