【エッセイ】「愛にであう『渡辺のわたし』-斉藤斎藤の歌集ノート-」『抒情文芸152号』2014年秋・掲載
- 2015/03/10
- 22:11
斉藤斎藤の歌集『渡辺のわたし』には、〈愛〉を詠んだ歌が少なくとも三首ある。次の三首がそれである。
① 愛ありき。その愛が君のかたちをとろうとしてるけど、それでいい?
② 急ブレーキ音は夜空にのみこまれ世界は無意味のおまけが愛
③ あいしてる閑話休題あいしてる閑話休題やきばのけむり
どの歌にも「愛/あい」が詠まれているが、ストレートな愛情表現としての愛がうたわれているわけではなく、〈屈折した愛〉が詠まれているのが特徴的である。
むしろ、〈愛〉は語り手にある種のバイアスや偏向をもたらすものであるようなのだ。
たとえば①の歌だが、「愛があった」ことは前提である。でもその「愛」が「君のかたち」を取ろうとするときに語り手は「君」に問いかける。「それでいい?」と。
ここには不思議な屈折がある。
語り手は「愛」を知っている。が、「愛」が「君のかたち」をとろうとするときになって「君」に問いかける。
②の歌では、「愛」は「おまけ」として語られている。「急ブレーキ音は夜空にのみこまれ」からは〈死〉が連想される。たとえ〈死〉とまではいかなくても「急ブレーキ音」がする状況と、その状況が「夜空にのみこまれ」雲散霧消してしまうような「無意味」としての「世界」がある。その「おまけが愛」である。
③の歌もやはり「やきばのけむり」といった〈死〉のイメージが「あいしてる」という「あい」とセットになっている。「あいしてる」のリフレインが「閑話休題」という本筋へ戻るための再起動で二度修正され、「やきばのけむり」で結語するのが③の歌である。
まとめてみるならば、①の「愛」は〈変ー態〉する愛。②の「愛」は〈添加〉としての愛。③の「あい」は、〈修正〉される愛である。
①②③の愛の歌からわかることは、『渡辺のわたし』という歌集にとって〈愛〉とはただ単独にあることができるものではなく、なにかに変容するかたちで、もしくはなにかの喪失とひきかえに存在するものらしいのである。ただ変容も、「君」が「愛」のかたちをとることで、「君」のかたちは失うのだろうから「喪失」といってもいいと思う。
すなわち「愛」は「喪失」とセットで詠まれなくてはならない。
「愛」とは有機的生命のコストがかかるものであり「あいしてる」と二度リフレインしても結語としての「やきばのけむり」で打ち消されてしまうような「喪失」への「かけがえのある」ものである。
『渡辺のわたし』にとって〈愛〉とはどこかや誰かに備給されるものではなく、つねに喪失とひきかえなのだ。『渡辺のわたし』において「愛」は「喪失」へ備給されている。
「愛」とは、完全なコミュニケーションを理想形とするものではなく、むしろその「愛」が生じたことによって「喪失」しているものを同時に考えることでもある。
愛とはそうしたブラックホールへの備給をどうにかこうにか言語化することではないか。
実際この歌集タイトル「渡辺のわたし」が詠み込まれたうたは、「喪失としての母」に捧げられている(本歌集には次の歌がある。「腰痛で整形外科に入院し五日後死んだ母肺癌で」)。
それはいつまでも「愛」としての「渡辺のわたし」が備給されつくすことなく、それでも備給されつづけることを象徴するかのようだ。
渡辺のわたしは母に捧げますおめでとう、渡辺の母さん 斉藤斎藤
柳本々々「愛にであう『渡辺のわたし』-斉藤斎藤の歌集ノート-」『抒情文芸152号』2014年秋・掲載
① 愛ありき。その愛が君のかたちをとろうとしてるけど、それでいい?
② 急ブレーキ音は夜空にのみこまれ世界は無意味のおまけが愛
③ あいしてる閑話休題あいしてる閑話休題やきばのけむり
どの歌にも「愛/あい」が詠まれているが、ストレートな愛情表現としての愛がうたわれているわけではなく、〈屈折した愛〉が詠まれているのが特徴的である。
むしろ、〈愛〉は語り手にある種のバイアスや偏向をもたらすものであるようなのだ。
たとえば①の歌だが、「愛があった」ことは前提である。でもその「愛」が「君のかたち」を取ろうとするときに語り手は「君」に問いかける。「それでいい?」と。
ここには不思議な屈折がある。
語り手は「愛」を知っている。が、「愛」が「君のかたち」をとろうとするときになって「君」に問いかける。
②の歌では、「愛」は「おまけ」として語られている。「急ブレーキ音は夜空にのみこまれ」からは〈死〉が連想される。たとえ〈死〉とまではいかなくても「急ブレーキ音」がする状況と、その状況が「夜空にのみこまれ」雲散霧消してしまうような「無意味」としての「世界」がある。その「おまけが愛」である。
③の歌もやはり「やきばのけむり」といった〈死〉のイメージが「あいしてる」という「あい」とセットになっている。「あいしてる」のリフレインが「閑話休題」という本筋へ戻るための再起動で二度修正され、「やきばのけむり」で結語するのが③の歌である。
まとめてみるならば、①の「愛」は〈変ー態〉する愛。②の「愛」は〈添加〉としての愛。③の「あい」は、〈修正〉される愛である。
①②③の愛の歌からわかることは、『渡辺のわたし』という歌集にとって〈愛〉とはただ単独にあることができるものではなく、なにかに変容するかたちで、もしくはなにかの喪失とひきかえに存在するものらしいのである。ただ変容も、「君」が「愛」のかたちをとることで、「君」のかたちは失うのだろうから「喪失」といってもいいと思う。
すなわち「愛」は「喪失」とセットで詠まれなくてはならない。
「愛」とは有機的生命のコストがかかるものであり「あいしてる」と二度リフレインしても結語としての「やきばのけむり」で打ち消されてしまうような「喪失」への「かけがえのある」ものである。
『渡辺のわたし』にとって〈愛〉とはどこかや誰かに備給されるものではなく、つねに喪失とひきかえなのだ。『渡辺のわたし』において「愛」は「喪失」へ備給されている。
「愛」とは、完全なコミュニケーションを理想形とするものではなく、むしろその「愛」が生じたことによって「喪失」しているものを同時に考えることでもある。
愛とはそうしたブラックホールへの備給をどうにかこうにか言語化することではないか。
実際この歌集タイトル「渡辺のわたし」が詠み込まれたうたは、「喪失としての母」に捧げられている(本歌集には次の歌がある。「腰痛で整形外科に入院し五日後死んだ母肺癌で」)。
それはいつまでも「愛」としての「渡辺のわたし」が備給されつくすことなく、それでも備給されつづけることを象徴するかのようだ。
渡辺のわたしは母に捧げますおめでとう、渡辺の母さん 斉藤斎藤
柳本々々「愛にであう『渡辺のわたし』-斉藤斎藤の歌集ノート-」『抒情文芸152号』2014年秋・掲載
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