【感想】烏山肛門科クリニックああ俳句のようだ 上野葉月
- 2015/03/11
- 00:31
烏山肛門科クリニックああ俳句のようだ 上野葉月
【あれ!コレ2015春】
この葉月さんの句についてはすでに西原天気さんが解説をされています。
俳句漫遊記84 俳句ということ
「これは「俳句」なのであり、ここで私たちが立ち会うのは「俳句」のもつ魔法(enchantment)なのだから。」
この西原さんの記述した〈これ〉性にちょっと着目してみたいとおもいます。それは、ロラン・バルトのいう〈あれ!〉性にもつながってくるはずです。
この葉月さんの俳句は、俳句についての俳句にもなっています。
〈短歌についての短歌〉や〈俳句についての俳句〉ってありますよね。〈川柳についての川柳〉も川合大祐さんが意識的に詠まれたりしています。
メタ短歌、メタ俳句、メタ川柳と呼ばれたりしています。
メタっていうのは、〈~について/~のうえに/~を超えて〉という意味ですから、その形式を使いながら、その形式をつづることが、メタです。
この葉月さんの句も、「ああ俳句のようだ」ということを〈俳句〉で語っているわけです。
「烏山肛門科クリニック」も「俳句のよう」かもしれないけれども、そういうふうに感慨を抱いていること自体が語り手にとってはもう〈俳句〉なわけです。これは、俳句なので。
ロラン・バルトが俳句についてこんな指摘をしていました。俳句とは、こどもが指をさして、あれ!という行為にちかいと。
そこにはなんらかの意味性があるわけではありません。もしかしたら、あれ!と指したものとあれ!と指されたものに本質的な関係性もないかもしれない。指さしたのがこどもということは、こどもはそもそも意味の連関で生きておらず、発作的に眼がうつる場合もあるわけです。とうとつにそれに執着したり、意味もないことにわけもわからずうれしくなってしまったり。
それはこどもが意味の体系を内面化していないからです。
で、葉月さんの「烏山肛門科クリニック」はもしかしたら俳句的素養のもとなんらかのリンクがあるのかもしれないけれども、ひとつの解釈としてわたしが思うのは、バルトがいったように、無心に、あれ!と指さしてしまったら、それは俳句になってしまうのではないかと。
俳句的なものはなく、俳句の本質もなく、ただ、あれ!という〈指さし〉があるだけなのではないか。
だから、「烏山肛門科クリニック」もまた俳句なのです。そして、それを俳句と感じていること自体もまた、俳句なのです。
この、あれ!はおそらく、上の句と下の句で構造性をつくる短歌にはしにくいのではないかとおもいます。
でも、俳句は、できる。
そもそも『歳時記』とは、『あれ!全集』なのではないかとすら、おもったりもすることがあるのです。
歴史的あれ!コレクション。
春の棒先にかかったものを飼う 上野葉月
【あれ!コレ2015春】
この葉月さんの句についてはすでに西原天気さんが解説をされています。
俳句漫遊記84 俳句ということ
「これは「俳句」なのであり、ここで私たちが立ち会うのは「俳句」のもつ魔法(enchantment)なのだから。」
この西原さんの記述した〈これ〉性にちょっと着目してみたいとおもいます。それは、ロラン・バルトのいう〈あれ!〉性にもつながってくるはずです。
この葉月さんの俳句は、俳句についての俳句にもなっています。
〈短歌についての短歌〉や〈俳句についての俳句〉ってありますよね。〈川柳についての川柳〉も川合大祐さんが意識的に詠まれたりしています。
メタ短歌、メタ俳句、メタ川柳と呼ばれたりしています。
メタっていうのは、〈~について/~のうえに/~を超えて〉という意味ですから、その形式を使いながら、その形式をつづることが、メタです。
この葉月さんの句も、「ああ俳句のようだ」ということを〈俳句〉で語っているわけです。
「烏山肛門科クリニック」も「俳句のよう」かもしれないけれども、そういうふうに感慨を抱いていること自体が語り手にとってはもう〈俳句〉なわけです。これは、俳句なので。
ロラン・バルトが俳句についてこんな指摘をしていました。俳句とは、こどもが指をさして、あれ!という行為にちかいと。
そこにはなんらかの意味性があるわけではありません。もしかしたら、あれ!と指したものとあれ!と指されたものに本質的な関係性もないかもしれない。指さしたのがこどもということは、こどもはそもそも意味の連関で生きておらず、発作的に眼がうつる場合もあるわけです。とうとつにそれに執着したり、意味もないことにわけもわからずうれしくなってしまったり。
それはこどもが意味の体系を内面化していないからです。
で、葉月さんの「烏山肛門科クリニック」はもしかしたら俳句的素養のもとなんらかのリンクがあるのかもしれないけれども、ひとつの解釈としてわたしが思うのは、バルトがいったように、無心に、あれ!と指さしてしまったら、それは俳句になってしまうのではないかと。
俳句的なものはなく、俳句の本質もなく、ただ、あれ!という〈指さし〉があるだけなのではないか。
だから、「烏山肛門科クリニック」もまた俳句なのです。そして、それを俳句と感じていること自体もまた、俳句なのです。
この、あれ!はおそらく、上の句と下の句で構造性をつくる短歌にはしにくいのではないかとおもいます。
でも、俳句は、できる。
そもそも『歳時記』とは、『あれ!全集』なのではないかとすら、おもったりもすることがあるのです。
歴史的あれ!コレクション。
春の棒先にかかったものを飼う 上野葉月
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