【感想】2番ホームの屋根の終わりに落ちている漫画ゴラクに降りそそぐ雨 斉藤斎藤
- 2015/03/11
- 01:22
2番ホームの屋根の終わりに落ちている漫画ゴラクに降りそそぐ雨 斉藤斎藤
【棒立ちのまま乗るジェットコースター】
意味の歌というよりも、視線の歌なんじゃないかなっておもうんですよ。
まず「2番ホーム」で、ややうえですよね。ややうえあたりに、駅において2番の看板なり電光掲示板がでている。やや↑です。「2番」という具体的な視線のポイントも大事だとおもいます。いま・ここ感の視線です。3番とか4番ホームはぶっちゃけどうでもいい。それが、いま・ここ感です。
「2番ホーム」。そこからさらに「屋根」という上に行きます。
2番ホームの屋根ですから、いちおういまいる空間、駅の空間では、もっとも高い↑ということになるとおもうんです。
ここまでカタカタカタカタとジェットコースターの急降下する前のように↑まであがっていきます。
そしてとつぜん「終わり」です。「屋根の終わり」で、え? っておもいます。どうゆうこと? っておもいますよ。「屋根の終わり」って。でもたぶんここでは、意味を構成する前に↑へとあげていたわたしたちを急降下させているんじゃないかとおもいます。↑が「終わ」ったわけです。
だからそこからじっさいにわたしたちは「落ちてい」きます。
そして落ちて落ちて、こんどは、地上にたどりつきます。おそらくそこはこの空間のいちばん下↓です。
そして「漫画ゴラク」の具体名。これもいま・ここ感でふ。ヤンジャンとかスピリッツとか別冊マーガレットとかどうでもいいわけです。
そしてジェットコースターを読み手に体感させたあとに、こんどはもういちどジェットコースターの軌道をふりかえります。
それが、上から下へと「降りそそぐ雨」です。漫画ゴラクは雨にうたれているわけじゃなく、降りそそがれているわけです。つまりこれは、点の観察じゃなく、漫画ゴラクに対する線の観察です。うえからしたへとあめがふりそそぐ空間の観察です。
まとめると、こうなります。
この短歌では、まず読み手のわたしたちが体感的にジェットコースターします。上へ上へとのぼらされ、いっきに急降下します。
急降下したあとで、こんどは、ジェットコースターの軌道を復習します。イメージとして再構成するわけです。
書いていておもったのですが、もしかすると、短歌における身体とは、身体のことではなく、視線なのかもしれません。
短歌においては、視線こそが身体になる。
だから、いくら体や身体を短歌のなかで描いたとしてもそれは身体的にはなったしても、短歌の身体そのものにはならない。
短歌そのものが伸縮し、運動し、身体論的になるのは、こうした視線としての身体なのではないか。
そんなふうに、おもいました。だから、
地下駅のエスカレーターのぼりつめおはよう、ハニー(←防犯カメラ) 斉藤斎藤
といつものように終わらせつつも、もういちどエスカレーターで上がってきて、記事をつづけてしまうんですが(これはそういう視線の身体について書いた記事なので)、斉藤斎藤さんのNHK短歌、今までぜんぶ観ましたが毎週すごくおもしろかったし、すごく勉強になりました。
どの回もこころに残ってるのですが、そのなかでもいちばんこころに焼き付いているのは、正岡豊さんがゲストで来られていたときの回です。
短歌を本気でやってみるって、どういうことなんだろう、
というのが、その回の裏テーマだったようにも、(かってに)おもいます。
本気とあきらめは、どこかでセットになっている。うらおもてになっている。
そのときに、じゃあ、このわたしの本気とあきらめをどこにおくのか。
そしてそれがどのように短歌にあらわれるのか。そして、短歌から、突き返され、はねのけられるのか。
いま、あらためてふりかえってみて、そんなことが問われていたようにおもうのです。
斉藤斎藤さんはNHK短歌で「初心者になるための短歌入門」を連載されていましたが、もしかしたら、定型とは、毎回毎回、〈初心者〉になるための装置なのかもしれません。
へたなピアノがきこえてきたらもうぼくが夕焼けをあきらめたとおもえ 正岡豊
きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる舟がある 〃
【棒立ちのまま乗るジェットコースター】
意味の歌というよりも、視線の歌なんじゃないかなっておもうんですよ。
まず「2番ホーム」で、ややうえですよね。ややうえあたりに、駅において2番の看板なり電光掲示板がでている。やや↑です。「2番」という具体的な視線のポイントも大事だとおもいます。いま・ここ感の視線です。3番とか4番ホームはぶっちゃけどうでもいい。それが、いま・ここ感です。
「2番ホーム」。そこからさらに「屋根」という上に行きます。
2番ホームの屋根ですから、いちおういまいる空間、駅の空間では、もっとも高い↑ということになるとおもうんです。
ここまでカタカタカタカタとジェットコースターの急降下する前のように↑まであがっていきます。
そしてとつぜん「終わり」です。「屋根の終わり」で、え? っておもいます。どうゆうこと? っておもいますよ。「屋根の終わり」って。でもたぶんここでは、意味を構成する前に↑へとあげていたわたしたちを急降下させているんじゃないかとおもいます。↑が「終わ」ったわけです。
だからそこからじっさいにわたしたちは「落ちてい」きます。
そして落ちて落ちて、こんどは、地上にたどりつきます。おそらくそこはこの空間のいちばん下↓です。
そして「漫画ゴラク」の具体名。これもいま・ここ感でふ。ヤンジャンとかスピリッツとか別冊マーガレットとかどうでもいいわけです。
そしてジェットコースターを読み手に体感させたあとに、こんどはもういちどジェットコースターの軌道をふりかえります。
それが、上から下へと「降りそそぐ雨」です。漫画ゴラクは雨にうたれているわけじゃなく、降りそそがれているわけです。つまりこれは、点の観察じゃなく、漫画ゴラクに対する線の観察です。うえからしたへとあめがふりそそぐ空間の観察です。
まとめると、こうなります。
この短歌では、まず読み手のわたしたちが体感的にジェットコースターします。上へ上へとのぼらされ、いっきに急降下します。
急降下したあとで、こんどは、ジェットコースターの軌道を復習します。イメージとして再構成するわけです。
書いていておもったのですが、もしかすると、短歌における身体とは、身体のことではなく、視線なのかもしれません。
短歌においては、視線こそが身体になる。
だから、いくら体や身体を短歌のなかで描いたとしてもそれは身体的にはなったしても、短歌の身体そのものにはならない。
短歌そのものが伸縮し、運動し、身体論的になるのは、こうした視線としての身体なのではないか。
そんなふうに、おもいました。だから、
地下駅のエスカレーターのぼりつめおはよう、ハニー(←防犯カメラ) 斉藤斎藤
といつものように終わらせつつも、もういちどエスカレーターで上がってきて、記事をつづけてしまうんですが(これはそういう視線の身体について書いた記事なので)、斉藤斎藤さんのNHK短歌、今までぜんぶ観ましたが毎週すごくおもしろかったし、すごく勉強になりました。
どの回もこころに残ってるのですが、そのなかでもいちばんこころに焼き付いているのは、正岡豊さんがゲストで来られていたときの回です。
短歌を本気でやってみるって、どういうことなんだろう、
というのが、その回の裏テーマだったようにも、(かってに)おもいます。
本気とあきらめは、どこかでセットになっている。うらおもてになっている。
そのときに、じゃあ、このわたしの本気とあきらめをどこにおくのか。
そしてそれがどのように短歌にあらわれるのか。そして、短歌から、突き返され、はねのけられるのか。
いま、あらためてふりかえってみて、そんなことが問われていたようにおもうのです。
斉藤斎藤さんはNHK短歌で「初心者になるための短歌入門」を連載されていましたが、もしかしたら、定型とは、毎回毎回、〈初心者〉になるための装置なのかもしれません。
へたなピアノがきこえてきたらもうぼくが夕焼けをあきらめたとおもえ 正岡豊
きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる舟がある 〃
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