【感想】遠くから見える花火は観覧車みたいやねって笑いかけたい 嶋田さくらこ
- 2015/03/12
- 07:14
遠くから見える花火は観覧車みたいやねって笑いかけたい 嶋田さくらこ
【きみはわたしのことばを変える】
この歌の「みたいやね」の「やね」っていう口語的な言葉遣いに注目してみたいとおもうんです。
この「観覧車みたいやね」っていうのはおそらく「遠くから見える花火は」とことばの位相の面で対立構造をもっている。
「遠くから見える花火は」対「観覧車みたいやね」
この「遠くから見える花火は」って書き言葉だとおもうんですね。もし「やね」のように口語的にいうなら、たとえば「遠くに見える花火って」というふうにもっとくだけた感じになるとおもうんです。
だからこの歌の語り手にとっては、さいしょはこの歌は書き言葉から入ってるとおもうんですよ。書き言葉だったし、もしかしたらきみに話しかけるつもりさえなかったのかもしれない。
ところがです。「花火」と語り手が書き・語った瞬間、ことばの位相の花火があがって、口語かつ語り手がふだん身体的に使っている〈ローカル〉(語り手にとっては〈セントラル〉)なことばに打ち上げられた。
書き言葉からはじめていたんだけれども、とつぜん気持ちや意思があふれ、ふだんの口語へとことばが打ち上げられる。
それがこの短歌にとってのいちばんの〈花火〉であり、「笑いかけたい」きみへのゆれるきもちだとおもうんです。
「笑いかけたい」きみは、わたしの書き言葉としての位相を変えるくらい、わたしにとってはパワフルな存在です。
語り口が変わってしまうくらいの火花をあげてくる。
そのときそんなパワフルなきみに対抗できるのは、わたしにとっていちばん〈セントラル〉で身体的な言語である〈やね〉というわたしがふだん生きている言語だとおもうんです。
こういう語り口の変位に、恋情があらわれてくる。
花火や観覧車が位相を変えることをたのしむアトラクションのように、きもちがひきつけられたそのせつな、ことばもくるくると位相を変える。
そこにこの短歌がことばと感情に向き合おうとしている位相があるようにおもうんです。
さくらこさんの短歌はそうしたことばの位相が感情を時間差でひきつれてくることにとても敏感です。
だからたとえばコンビニもことばの実践の場所になります。つまり、
おおきにと言う癖ついてコンビニの店員さんにおおきにと言う 嶋田さくらこ
【きみはわたしのことばを変える】
この歌の「みたいやね」の「やね」っていう口語的な言葉遣いに注目してみたいとおもうんです。
この「観覧車みたいやね」っていうのはおそらく「遠くから見える花火は」とことばの位相の面で対立構造をもっている。
「遠くから見える花火は」対「観覧車みたいやね」
この「遠くから見える花火は」って書き言葉だとおもうんですね。もし「やね」のように口語的にいうなら、たとえば「遠くに見える花火って」というふうにもっとくだけた感じになるとおもうんです。
だからこの歌の語り手にとっては、さいしょはこの歌は書き言葉から入ってるとおもうんですよ。書き言葉だったし、もしかしたらきみに話しかけるつもりさえなかったのかもしれない。
ところがです。「花火」と語り手が書き・語った瞬間、ことばの位相の花火があがって、口語かつ語り手がふだん身体的に使っている〈ローカル〉(語り手にとっては〈セントラル〉)なことばに打ち上げられた。
書き言葉からはじめていたんだけれども、とつぜん気持ちや意思があふれ、ふだんの口語へとことばが打ち上げられる。
それがこの短歌にとってのいちばんの〈花火〉であり、「笑いかけたい」きみへのゆれるきもちだとおもうんです。
「笑いかけたい」きみは、わたしの書き言葉としての位相を変えるくらい、わたしにとってはパワフルな存在です。
語り口が変わってしまうくらいの火花をあげてくる。
そのときそんなパワフルなきみに対抗できるのは、わたしにとっていちばん〈セントラル〉で身体的な言語である〈やね〉というわたしがふだん生きている言語だとおもうんです。
こういう語り口の変位に、恋情があらわれてくる。
花火や観覧車が位相を変えることをたのしむアトラクションのように、きもちがひきつけられたそのせつな、ことばもくるくると位相を変える。
そこにこの短歌がことばと感情に向き合おうとしている位相があるようにおもうんです。
さくらこさんの短歌はそうしたことばの位相が感情を時間差でひきつれてくることにとても敏感です。
だからたとえばコンビニもことばの実践の場所になります。つまり、
おおきにと言う癖ついてコンビニの店員さんにおおきにと言う 嶋田さくらこ
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