【感想】セシウムも『こびとづかん』の小人らも黄金(きん)の河原の見えない誰か 米川千嘉子
- 2015/03/18
- 07:00
セシウムも『こびとづかん』の小人らも黄金(きん)の河原の見えない誰か 米川千嘉子
【コンテクストとしての2011】
川上弘美は3・11以後に「神様」をふたたび書き直した『神様2011』を書いたが、そこで描かれたのは、日常的に行うなにげないピクニックが、〈なにげある〉ピクニックになってしまうという、状況の変化だった。
わたしたちが、変わってしまったわけではない。
ただわたしたちを取り巻く状況が変わっただけで、わたしたちがなにげなく使用している日常の記号の意味がすべて変わってしまったのだ。
だから、「春の小川」という日本の唱歌として歌われるようなある意味固定された動かしがたい抒情イメージも3・11以後の〈風景〉においては米川さんの歌にあるような次のような多層的な風景になる。
われと子のむかしの春の小川なり線量高きコンクリの川 米川千嘉子
ここで注意したいのは、これは〈一見〉してなにも変わってはいないということだ。
見える/見えないのカテゴリーで世界が変化したのではない。記号が変わったのだ。
なぜ記号が変わったのか。
記号を取り巻く文脈(コンテクスト)が変わったから。
線量計測りて動く人のそばゆくときひらりとする感覚は 米川千嘉子
だからそれは「ひらりとする感覚」としかいいあらわしえないような〈なにか〉である。
「セシウム」も「『こびとづかん』の小人」も表象をとおして、はじめて〈認識〉することができる。
でもそれはどこまでいっても「見えない誰か」であり、〈実感〉としてはつかめないものだ。
〈風景〉はなにもかわっていない。
ただ〈認識される風景〉はかわったのだ。
公園の土もきりんのシーソーもあたらしくなり あたらしい親子 米川千嘉子
文脈によってはこれまでなんども繰り返された〈風景〉である。
公園の土があたらしくなることもあっただろうし、きりんのシーソーがあたらしくなることもあっただろう。あたらしい親子がくることもあっただろう。
それはとりたてて言及するまでもない〈ふつう〉の再生産されてきた風景である。
でも、『神様2011』のように、わたしたちは〈2011〉という文脈以後を生きている。
「公園の土」にも「きりんのシーソー」にも「あたらし」く更新される風景にも、そこにはそうされなければならなかった文脈があらわれる。
でもその文脈は決定しがたいものだ。それは「見えない」「ひらり」としたものなので、ほんとうにそれがあたらしくされるべきものだったのかどうかはだれにもわからない。
だからこの短歌自体がそうした文脈のはざかいのなかで揺れつづけているようにも、わたしには、おもえる。
「抱擁を交わしていただけますか」
くまは言った。
「親しい人と別れるときの故郷の習慣なのです。もしお嫌ならもちろんいいのですが」
わたしは承知した。
くまは一歩前に出ると、両腕を大きく広げ、その腕をわたしの肩にまわし、頬をわたしの頬にこすりつけた。くまの匂いがする。反対の頬も同じようにこすりつけると、もう一度腕に力を入れてわたしの肩を抱いた。
思ったよりもくまの体は冷たかった。
川上弘美『神様』
*
「抱擁を交わしていただけますか」
くまは言った。
「親しい人と別れるときの故郷の習慣なのです。もしお嫌ならもちろんいいのですが」
わたしは承知した。
くまはあまり風呂に入らないはずだから、たぶん体表の放射線量はいくらか高いだろう。けれど、この地域に住みつづけることを選んだのだから、そんなことを気にするつもりなど最初からない。
川上弘美『神様2011』
【コンテクストとしての2011】
川上弘美は3・11以後に「神様」をふたたび書き直した『神様2011』を書いたが、そこで描かれたのは、日常的に行うなにげないピクニックが、〈なにげある〉ピクニックになってしまうという、状況の変化だった。
わたしたちが、変わってしまったわけではない。
ただわたしたちを取り巻く状況が変わっただけで、わたしたちがなにげなく使用している日常の記号の意味がすべて変わってしまったのだ。
だから、「春の小川」という日本の唱歌として歌われるようなある意味固定された動かしがたい抒情イメージも3・11以後の〈風景〉においては米川さんの歌にあるような次のような多層的な風景になる。
われと子のむかしの春の小川なり線量高きコンクリの川 米川千嘉子
ここで注意したいのは、これは〈一見〉してなにも変わってはいないということだ。
見える/見えないのカテゴリーで世界が変化したのではない。記号が変わったのだ。
なぜ記号が変わったのか。
記号を取り巻く文脈(コンテクスト)が変わったから。
線量計測りて動く人のそばゆくときひらりとする感覚は 米川千嘉子
だからそれは「ひらりとする感覚」としかいいあらわしえないような〈なにか〉である。
「セシウム」も「『こびとづかん』の小人」も表象をとおして、はじめて〈認識〉することができる。
でもそれはどこまでいっても「見えない誰か」であり、〈実感〉としてはつかめないものだ。
〈風景〉はなにもかわっていない。
ただ〈認識される風景〉はかわったのだ。
公園の土もきりんのシーソーもあたらしくなり あたらしい親子 米川千嘉子
文脈によってはこれまでなんども繰り返された〈風景〉である。
公園の土があたらしくなることもあっただろうし、きりんのシーソーがあたらしくなることもあっただろう。あたらしい親子がくることもあっただろう。
それはとりたてて言及するまでもない〈ふつう〉の再生産されてきた風景である。
でも、『神様2011』のように、わたしたちは〈2011〉という文脈以後を生きている。
「公園の土」にも「きりんのシーソー」にも「あたらし」く更新される風景にも、そこにはそうされなければならなかった文脈があらわれる。
でもその文脈は決定しがたいものだ。それは「見えない」「ひらり」としたものなので、ほんとうにそれがあたらしくされるべきものだったのかどうかはだれにもわからない。
だからこの短歌自体がそうした文脈のはざかいのなかで揺れつづけているようにも、わたしには、おもえる。
「抱擁を交わしていただけますか」
くまは言った。
「親しい人と別れるときの故郷の習慣なのです。もしお嫌ならもちろんいいのですが」
わたしは承知した。
くまは一歩前に出ると、両腕を大きく広げ、その腕をわたしの肩にまわし、頬をわたしの頬にこすりつけた。くまの匂いがする。反対の頬も同じようにこすりつけると、もう一度腕に力を入れてわたしの肩を抱いた。
思ったよりもくまの体は冷たかった。
川上弘美『神様』
*
「抱擁を交わしていただけますか」
くまは言った。
「親しい人と別れるときの故郷の習慣なのです。もしお嫌ならもちろんいいのですが」
わたしは承知した。
くまはあまり風呂に入らないはずだから、たぶん体表の放射線量はいくらか高いだろう。けれど、この地域に住みつづけることを選んだのだから、そんなことを気にするつもりなど最初からない。
川上弘美『神様2011』
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の短歌感想