【感想】ようわからんひとがしっこをするとこを見にきてしかもようほめる 吉岡太朗
- 2014/05/23
- 20:51
ようわからんひとがしっこをするとこを見にきてしかもようほめる 吉岡太朗
【初心者になるための規律と訓練】
〈標準語〉ではないかたちで短歌を詠むことをすこしかんがえてみたい。
吉岡さんは独特の手書き文字で連作を掲載していたことがとても印象的であったのだが、加藤治郎さんはこの吉岡さんの手書き文字に対して「引用不可能性」を指摘していた。
この「引用不可能性」とは、あえてわたしがことばを敷衍するなら、読み手に〈翻訳〉をさせるということではないか、とわたしはおもう。意味内容のレベルでのデコード(読み出し)と同時に独特の手書き文字に対して各人がどういったスタンス、立場、文脈を形成するかという意味表現のレベルでのデコードがある。意味表現のレベルでのデコードとは、〈活字〉のように画一化された透明なメディアではないため、吉岡さんの手書き文字=書かれた短歌を、読み手の意識のなかにもういちど〈書き〉起こす必要がある。つまり、わたしたちは吉岡さんの手書き文字に対してははじめて遭遇する読み手であり、判読しがたいこの文字に対しては、わたしたちはすくなくとも〈外国人〉である。だから、〈翻訳〉の必要がある。
わたしはこうした〈翻訳〉の要請が吉岡さんの短歌のひとつの特性としてあるのではないかとおもう。
それは、発話形式の選択として〈方言〉を選択することからもいえる。内容うんぬんと同時に、わたしたちは〈方言〉のレベルとしても〈翻訳〉しなければならない。ここで大事なのは、〈翻訳〉とは実はあいての発話内容を明確にするというよりは、わたしがどのような発話位置に立っているかを明確にする必要がある作業であるということだ。
読み手であるわたしが、どこに住み、どのような立場にあり、どのような階層のなかにいて、どのような言語のローカリティに敏感であるか。そのことを問い直しすことこそが、おそらく〈翻訳〉という作業であるのではないかとおもう。
この短歌において、「ようわからんひと」と「しっこ」をしてる語り手との共約点は、「しっこ」でしかない。「しかも」という接続詞が示すように、語り手の意識は結句まで変化せず、「ようわからんひと」との共約不可能性はさいごまで解除されかい。しかし、「ようわからんひと」が「ようほめ」ている以上、「ようわからんひと」はなんらかのかたちで語り手の「しっこ」を〈翻訳〉しているはずだ。ところがその〈翻訳〉を語り手は〈翻訳〉することはできない。
このような「しっこ」という普遍化され馴致された身体行為、もしくは、書くという日常的にやはり規律訓練された書記行為、または(近代短歌的に〈標準語〉で話す)というやはり短歌モードとして馴致された発話、そうした規律訓練的な行為に対して敏感なのが吉岡さんの短歌のひとつの特徴なのではないかとおもう。
かいだんをのぼった先がそらなことしばらくはつづくしあがるわ 吉岡太朗
「れきしてきいきづかい」『短歌研究』2011/5
私たち自身の言語からマイナーな語法をつくるべきである。《自分自身の言語》の中で外国人のように話すこと。
ドゥルーズ『対話』
誤った訳とされるものでも、ある閉じられた言説空間に亀裂をもたらす攪乱契機として何ものかを伝えている。翻訳を異質な言説を招き入れるパフォーマティヴな行為だと捉え直せば、そこから対話的な関係を引き出すことができる。
高橋修「翻訳と加工-明治期のロビンソナードをめぐって-」『日本文学』2006/1
【初心者になるための規律と訓練】
〈標準語〉ではないかたちで短歌を詠むことをすこしかんがえてみたい。
吉岡さんは独特の手書き文字で連作を掲載していたことがとても印象的であったのだが、加藤治郎さんはこの吉岡さんの手書き文字に対して「引用不可能性」を指摘していた。
この「引用不可能性」とは、あえてわたしがことばを敷衍するなら、読み手に〈翻訳〉をさせるということではないか、とわたしはおもう。意味内容のレベルでのデコード(読み出し)と同時に独特の手書き文字に対して各人がどういったスタンス、立場、文脈を形成するかという意味表現のレベルでのデコードがある。意味表現のレベルでのデコードとは、〈活字〉のように画一化された透明なメディアではないため、吉岡さんの手書き文字=書かれた短歌を、読み手の意識のなかにもういちど〈書き〉起こす必要がある。つまり、わたしたちは吉岡さんの手書き文字に対してははじめて遭遇する読み手であり、判読しがたいこの文字に対しては、わたしたちはすくなくとも〈外国人〉である。だから、〈翻訳〉の必要がある。
わたしはこうした〈翻訳〉の要請が吉岡さんの短歌のひとつの特性としてあるのではないかとおもう。
それは、発話形式の選択として〈方言〉を選択することからもいえる。内容うんぬんと同時に、わたしたちは〈方言〉のレベルとしても〈翻訳〉しなければならない。ここで大事なのは、〈翻訳〉とは実はあいての発話内容を明確にするというよりは、わたしがどのような発話位置に立っているかを明確にする必要がある作業であるということだ。
読み手であるわたしが、どこに住み、どのような立場にあり、どのような階層のなかにいて、どのような言語のローカリティに敏感であるか。そのことを問い直しすことこそが、おそらく〈翻訳〉という作業であるのではないかとおもう。
この短歌において、「ようわからんひと」と「しっこ」をしてる語り手との共約点は、「しっこ」でしかない。「しかも」という接続詞が示すように、語り手の意識は結句まで変化せず、「ようわからんひと」との共約不可能性はさいごまで解除されかい。しかし、「ようわからんひと」が「ようほめ」ている以上、「ようわからんひと」はなんらかのかたちで語り手の「しっこ」を〈翻訳〉しているはずだ。ところがその〈翻訳〉を語り手は〈翻訳〉することはできない。
このような「しっこ」という普遍化され馴致された身体行為、もしくは、書くという日常的にやはり規律訓練された書記行為、または(近代短歌的に〈標準語〉で話す)というやはり短歌モードとして馴致された発話、そうした規律訓練的な行為に対して敏感なのが吉岡さんの短歌のひとつの特徴なのではないかとおもう。
かいだんをのぼった先がそらなことしばらくはつづくしあがるわ 吉岡太朗
「れきしてきいきづかい」『短歌研究』2011/5
私たち自身の言語からマイナーな語法をつくるべきである。《自分自身の言語》の中で外国人のように話すこと。
ドゥルーズ『対話』
誤った訳とされるものでも、ある閉じられた言説空間に亀裂をもたらす攪乱契機として何ものかを伝えている。翻訳を異質な言説を招き入れるパフォーマティヴな行為だと捉え直せば、そこから対話的な関係を引き出すことができる。
高橋修「翻訳と加工-明治期のロビンソナードをめぐって-」『日本文学』2006/1
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の短歌感想