【短歌】ぽ(毎日新聞・毎日歌壇2015年3月23日・加藤治郎 選)
- 2015/03/23
- 06:51
たんぽぽのぽぽのあたりをそっと撫で入り日は小さき光を収(しま)ふ 河野裕子
恋人と棲むよろこびもかなしみもぽぽぽぽぽぽとしか思はれず 荻原裕幸
*
「きゃりーぱみゅぱみゅ」ってじっさい口に出してみるとわかるんですが、〈言いにくい〉んですよね。
くりかえして、きゃりーぱみゅぱみゅきゃりーぱみゅぱみゅきゃりーぱみゅぱみゅきゃりーぱみゅぱみゅと言い続けてみると、けっこうなくちびるの労働量になることが、わかります。
これはこのP音のくちびるの作業量(ひとつひとつ破裂させなければならない破裂音)によるものだとおもうんですが、うえの有名な河野さんと荻原さんの〈ぽ〉の歌も、〈ぽ〉を繰り返すことから生じる〈作業量〉の歌、〈手数〉の歌だということもできるのではないかとおもうんです。
沈む夕陽がぽぽをそっと撫でたり、恋人と棲む生活がぽぽぽぽぽとしか言語化されない、語り手にとってはぽぽぽぽぽとしか思われないのだけれど、実はその意味内容に反して〈そんなにもおもっていた〉ということでもあるんじゃないかって、おもうのです。歌の意味内容を〈ぽ〉を介した歌の意味表現がくつがえしてゆく。
河野さんの歌は「そっと/小さき」、荻原さんの歌には「としか思はれず」とどちらも注意深く〈限定的〉に語られているけれど、実は〈ぽ〉を繰り返した時点で、くちびるの作業量に比例した感情の高カロリーを消費しているんじゃないかとおもうんです。あたかも〈そっけなく〉語られていることに反して、〈ぽの作業量〉として歌われたくちびるが〈大きな出来事〉としてそれを裏切っていく。
ぽぽぽぽぽの生活って、手数がかかる生活だった。
たとえば、結婚しよう、つきあおう、いっしょに暮らそう、手をつなごう、あの次の電信柱まで手をつないで歩こう、添い寝しよう、いっしょにたんぽぽコーヒー飲もう、とは噛まずにいえても、ねえいっしょにぽぽぽぽぽしよう、と言うときに、ひとは〈噛む〉かもしれない。うまくいえないかもしれない。はじめて、つまずくかもしれない。
だから河野さんの歌の〈ぽ〉も、荻原さんの歌の〈ぽ〉も非常に大きな出来事性を、〈ぽ〉が重ねられることによって持っていたとおもうんです。
たやすく、かんたんに、消費されないように、回収されないようなかたちで。
だからそれは〈ぽ〉を〈見出す〉という〈事件〉だったのではないかとおもうのです。〈ぽ〉という一見なんでもないかたちをよそおいながらも。しかし、〈ぽ〉はわたしたちの生活や〈存在の耐えられない軽さ〉を裏切ってゆく。
じゃあ、わたしにとっての〈ぽ〉は、どういうかたちになるのだろう。たとえば、〈ぽ〉の最終回への次回予告があるとするならば。
一人の男と、一人の女が、銀河の闇をぽとなって流れた。
一瞬のそのぽの中に、人々が見たものは、愛、戦い、運命。
そして、こぼれてくぽぽによろこびかなしみを見いだしていた同棲終わる
いま、全てが終わり、駆け抜けるぽ。
そのとき、全てが始まり、ぽの中に望みが生まれる。
次回、最終回「ぽ」。
遙かな時に、全てを掛けて。
*
こぼれてくぽぽによろこびかなしみを見いだしていた同棲終わる 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2015年3月23日・加藤治郎 選)
恋人と棲むよろこびもかなしみもぽぽぽぽぽぽとしか思はれず 荻原裕幸
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「きゃりーぱみゅぱみゅ」ってじっさい口に出してみるとわかるんですが、〈言いにくい〉んですよね。
くりかえして、きゃりーぱみゅぱみゅきゃりーぱみゅぱみゅきゃりーぱみゅぱみゅきゃりーぱみゅぱみゅと言い続けてみると、けっこうなくちびるの労働量になることが、わかります。
これはこのP音のくちびるの作業量(ひとつひとつ破裂させなければならない破裂音)によるものだとおもうんですが、うえの有名な河野さんと荻原さんの〈ぽ〉の歌も、〈ぽ〉を繰り返すことから生じる〈作業量〉の歌、〈手数〉の歌だということもできるのではないかとおもうんです。
沈む夕陽がぽぽをそっと撫でたり、恋人と棲む生活がぽぽぽぽぽとしか言語化されない、語り手にとってはぽぽぽぽぽとしか思われないのだけれど、実はその意味内容に反して〈そんなにもおもっていた〉ということでもあるんじゃないかって、おもうのです。歌の意味内容を〈ぽ〉を介した歌の意味表現がくつがえしてゆく。
河野さんの歌は「そっと/小さき」、荻原さんの歌には「としか思はれず」とどちらも注意深く〈限定的〉に語られているけれど、実は〈ぽ〉を繰り返した時点で、くちびるの作業量に比例した感情の高カロリーを消費しているんじゃないかとおもうんです。あたかも〈そっけなく〉語られていることに反して、〈ぽの作業量〉として歌われたくちびるが〈大きな出来事〉としてそれを裏切っていく。
ぽぽぽぽぽの生活って、手数がかかる生活だった。
たとえば、結婚しよう、つきあおう、いっしょに暮らそう、手をつなごう、あの次の電信柱まで手をつないで歩こう、添い寝しよう、いっしょにたんぽぽコーヒー飲もう、とは噛まずにいえても、ねえいっしょにぽぽぽぽぽしよう、と言うときに、ひとは〈噛む〉かもしれない。うまくいえないかもしれない。はじめて、つまずくかもしれない。
だから河野さんの歌の〈ぽ〉も、荻原さんの歌の〈ぽ〉も非常に大きな出来事性を、〈ぽ〉が重ねられることによって持っていたとおもうんです。
たやすく、かんたんに、消費されないように、回収されないようなかたちで。
だからそれは〈ぽ〉を〈見出す〉という〈事件〉だったのではないかとおもうのです。〈ぽ〉という一見なんでもないかたちをよそおいながらも。しかし、〈ぽ〉はわたしたちの生活や〈存在の耐えられない軽さ〉を裏切ってゆく。
じゃあ、わたしにとっての〈ぽ〉は、どういうかたちになるのだろう。たとえば、〈ぽ〉の最終回への次回予告があるとするならば。
一人の男と、一人の女が、銀河の闇をぽとなって流れた。
一瞬のそのぽの中に、人々が見たものは、愛、戦い、運命。
そして、こぼれてくぽぽによろこびかなしみを見いだしていた同棲終わる
いま、全てが終わり、駆け抜けるぽ。
そのとき、全てが始まり、ぽの中に望みが生まれる。
次回、最終回「ぽ」。
遙かな時に、全てを掛けて。
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こぼれてくぽぽによろこびかなしみを見いだしていた同棲終わる 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2015年3月23日・加藤治郎 選)
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