【感想】田中ましろさんのいおうええあえいああい、工藤吉生さんのアイアイオエエエエエエ、加藤治郎さんのゑゑゑゑゑゑゑゑゑ
- 2014/05/24
- 02:03
今回かんがえてみたいのは、母音短歌についてである。
母音を非意味の連なりとしてつなげることによって、非意味としての意味が浮かび上がってくるという不思議な構造をもった短歌だといえる。
恣意的に母音短歌を三首あげてみることとする。
いおうええあえいああいと舌の無い口に背中を押されて帰路は 田中ましろ
解答欄ずっとおんなじ文字並び不安だアイアイオエエエエエエ 工藤吉生
にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった 加藤治郎
みなめいめいの短歌の構造に沿って母音の連なりを検討すべきであるのだが(以前、工藤吉生さんと加藤治郎さんのこの短歌については感想を書いてみたことがある。参照:【感想】解答欄ずっとおんなじ文字並び不安だアイアイオエエエエエエ 工藤吉生、【感想】加藤治郎さんのゑゑゑゑ、荻原裕幸さんのぽぽぽぽ、仙波龍英さんのはははは、ニコニコ動画のええええ)、ここではもしこれら三首を共鳴させて読むとするならどういった読みの地平がひらかれるかをすこしかんがえてみたい。
ここで唐突だが、これら三首をつなげるサブテキストとして、萩原朔太郎の詩をあげてみたい。朔太郎の動物の鳴き声の言語化は独特な形象をともなっており、うえの三首にちかいかたちで表象されている。たとえば朔太郎の詩において、犬の鳴き声は「のをあある とをあある のをあある やわああ」だし、猫の鳴き声は「おわああ」になる。これらは、子音も交じっての母音なのだが、「をああ」や「おわああ」といった母音をあえて連続させることによって「わん」や「にゃあ」などの分節化された鳴き声とはちがう分節の見いだしにくい言語表象となっている。
すなわち、ひとつめのポイントは、犬や猫が非分節的な言語としての鳴き声になることによって「わん」や「にゃあ」としての鳴き声からの類別としてのアイデンティティを剥奪され、〈ひと/けもの〉としての境界線がゆらぐことだ。なぜなら、わたしたちは、アイデアとして「わん」や「にゃあ」とはいわないが、「をああ」や「おわああ」はくちにすることがあるからである。母音のつらなりは、発話者のアイデンティティそのものを奪っていく。
ふたつめのポイントは、朔太郎のそのような母音の鳴き声は、〈病〉とセットで表象されているということである。犬や猫は、〈病〉の可能態としてある。〈病〉むということそのものとパッケージングされた発話なのである。「をああ」や「おわああ」をわたしたちがくちにするときは、叫ぶときや嘔吐するときである。つまり、分節化できないような苦悶を言語化できないままに発話するときだ。非分節的な苦悶としての発話。
ここで三首の短歌に、もどろう。
田中ましろさんの短歌の「いおうええあえいああい」は、「舌の無い口」と語られているように「舌」を使わない非分節的発話だからこその「いおうええあえいああい」である。「背中を押されて帰路は」とあるようにここでは語り手の「帰路」を突き動かしているのは非意味としての母音の連なりであり、語り手がこの短歌を「口」で〈分節的〉に語っているにもかかわらず、語り手の力点が「背中」と「舌の無い口」の交点にあることが特徴的である。つまり、ここでは短歌がとなえられるかぎり、主体が相互に入れ替わりしつづけるという語り手のアイデンティティがうつろう事態が起こっている。
工藤吉生さんの短歌の「アイアイオエエエエエエ」も回答が母音の連なりになりやすいということから起こっている「不安」だが、超越的審級はもちろん「正答」にあるために、語り手がこの連なりを不自然とかんがえようが、自然とかんがえようが、この瞬間はわかりようがないことだ。しかし、語り手は、みずからが記述した解答を意味の連なりとして見いだしてしまったがために、その瞬間、非意味のつらなりとしてしか見いだせなくなってしまうというループにはまってしまっている。ここでは、記述した解答が意味生成の主体なのか、それとも語り手が意味生成の主体なのか、わからなくなる境界がたゆたうループが派生しつづけている。
加藤治郎さんの短歌の「ゑ」は、母音ウ+母音エのダブル母音による「母音調和」としての「母音」である。「うぇ(we)」と発音してみるとわかるが、「吐く形態」とも形容される母音調和であり、したがって、この「ゑゑゑゑゑゑゑゑゑ」というのは、じっさい口に出して読んでみると読み手は身体的な苦悶を感受することになる。つまり、「ゑ」はもはや発音もしにくく、まして「ゑ」が連続されたものを読むなどだれも発音したことがないために、黙読として、視覚的にこの短歌の「ゑ」というのは読まれがちでもあるとおもうのだが、実際は読むことによってはじめて身体的な苦悶のありようがわかってくる短歌である。「ひどい戦争だった」は身体的に感受されるのである。
いや、加藤さんのだけではない。田中さんのも工藤さんのも、みな、いままでだれも発音のしたことのない、嘔吐にも似た、あえて発音することを避けるようなかたちなのである。しかしだからこそ、発音したときに、私たちはめいめいの語り手が抱いている「帰路」や「不安」や「ひどい戦争」を身体的に感受することができる。朔太郎の詩が示唆していたことだが、病とは、文化的な言説レベルの問題として生起する事象でありながら、その文化の言説編成がどのように身体と接続されていくかが大事なことだ。これら短歌はそういった言説と身体の節合のしかたを、母音のつらなりによってあらわしているとはいえないだろうか。
短歌を口にだして声でよむことは、うつくしい響きといわれがちだけれど、あえて身体にノイズをはしらせることで、声にだしてよんだときに、語り手の苦悶を感受させる短歌もあるのではないだろうか。わたしは、三首の母音短歌に、そのようなことをかんじた。
人家は地面にへたばつて
おほきな蜘蛛のやうに眠つてゐる。
さびしいまつ暗な自然の中で
動物は恐れにふるへ
なにかの夢魔におびやかされ
かなしく青ざめて吠えてゐます。
のをあある とをあある やわあ
もろこしの葉は風に吹かれて
さわさわと闇に鳴つてる。
お聽き! しづかにして
道路の向うで吠えてゐる
あれは犬の遠吠だよ。
のをあある とをあある やわあ
「犬は病んでゐるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのです。」
遠くの空の微光の方から
ふるへる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺傳の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。
犬のこころは恐れに青ざめ
夜陰の道路にながく吠える。
のをあある とをあある のをあある やわああ
「犬は病んでゐるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのですよ。」
萩原朔太郎「遺傳」
まつくろけの猫が二疋
なやましいよるの家根のうへで
ぴんとたてた尻尾のさきから
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』
萩原朔太郎「猫」
母音を非意味の連なりとしてつなげることによって、非意味としての意味が浮かび上がってくるという不思議な構造をもった短歌だといえる。
恣意的に母音短歌を三首あげてみることとする。
いおうええあえいああいと舌の無い口に背中を押されて帰路は 田中ましろ
解答欄ずっとおんなじ文字並び不安だアイアイオエエエエエエ 工藤吉生
にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった 加藤治郎
みなめいめいの短歌の構造に沿って母音の連なりを検討すべきであるのだが(以前、工藤吉生さんと加藤治郎さんのこの短歌については感想を書いてみたことがある。参照:【感想】解答欄ずっとおんなじ文字並び不安だアイアイオエエエエエエ 工藤吉生、【感想】加藤治郎さんのゑゑゑゑ、荻原裕幸さんのぽぽぽぽ、仙波龍英さんのはははは、ニコニコ動画のええええ)、ここではもしこれら三首を共鳴させて読むとするならどういった読みの地平がひらかれるかをすこしかんがえてみたい。
ここで唐突だが、これら三首をつなげるサブテキストとして、萩原朔太郎の詩をあげてみたい。朔太郎の動物の鳴き声の言語化は独特な形象をともなっており、うえの三首にちかいかたちで表象されている。たとえば朔太郎の詩において、犬の鳴き声は「のをあある とをあある のをあある やわああ」だし、猫の鳴き声は「おわああ」になる。これらは、子音も交じっての母音なのだが、「をああ」や「おわああ」といった母音をあえて連続させることによって「わん」や「にゃあ」などの分節化された鳴き声とはちがう分節の見いだしにくい言語表象となっている。
すなわち、ひとつめのポイントは、犬や猫が非分節的な言語としての鳴き声になることによって「わん」や「にゃあ」としての鳴き声からの類別としてのアイデンティティを剥奪され、〈ひと/けもの〉としての境界線がゆらぐことだ。なぜなら、わたしたちは、アイデアとして「わん」や「にゃあ」とはいわないが、「をああ」や「おわああ」はくちにすることがあるからである。母音のつらなりは、発話者のアイデンティティそのものを奪っていく。
ふたつめのポイントは、朔太郎のそのような母音の鳴き声は、〈病〉とセットで表象されているということである。犬や猫は、〈病〉の可能態としてある。〈病〉むということそのものとパッケージングされた発話なのである。「をああ」や「おわああ」をわたしたちがくちにするときは、叫ぶときや嘔吐するときである。つまり、分節化できないような苦悶を言語化できないままに発話するときだ。非分節的な苦悶としての発話。
ここで三首の短歌に、もどろう。
田中ましろさんの短歌の「いおうええあえいああい」は、「舌の無い口」と語られているように「舌」を使わない非分節的発話だからこその「いおうええあえいああい」である。「背中を押されて帰路は」とあるようにここでは語り手の「帰路」を突き動かしているのは非意味としての母音の連なりであり、語り手がこの短歌を「口」で〈分節的〉に語っているにもかかわらず、語り手の力点が「背中」と「舌の無い口」の交点にあることが特徴的である。つまり、ここでは短歌がとなえられるかぎり、主体が相互に入れ替わりしつづけるという語り手のアイデンティティがうつろう事態が起こっている。
工藤吉生さんの短歌の「アイアイオエエエエエエ」も回答が母音の連なりになりやすいということから起こっている「不安」だが、超越的審級はもちろん「正答」にあるために、語り手がこの連なりを不自然とかんがえようが、自然とかんがえようが、この瞬間はわかりようがないことだ。しかし、語り手は、みずからが記述した解答を意味の連なりとして見いだしてしまったがために、その瞬間、非意味のつらなりとしてしか見いだせなくなってしまうというループにはまってしまっている。ここでは、記述した解答が意味生成の主体なのか、それとも語り手が意味生成の主体なのか、わからなくなる境界がたゆたうループが派生しつづけている。
加藤治郎さんの短歌の「ゑ」は、母音ウ+母音エのダブル母音による「母音調和」としての「母音」である。「うぇ(we)」と発音してみるとわかるが、「吐く形態」とも形容される母音調和であり、したがって、この「ゑゑゑゑゑゑゑゑゑ」というのは、じっさい口に出して読んでみると読み手は身体的な苦悶を感受することになる。つまり、「ゑ」はもはや発音もしにくく、まして「ゑ」が連続されたものを読むなどだれも発音したことがないために、黙読として、視覚的にこの短歌の「ゑ」というのは読まれがちでもあるとおもうのだが、実際は読むことによってはじめて身体的な苦悶のありようがわかってくる短歌である。「ひどい戦争だった」は身体的に感受されるのである。
いや、加藤さんのだけではない。田中さんのも工藤さんのも、みな、いままでだれも発音のしたことのない、嘔吐にも似た、あえて発音することを避けるようなかたちなのである。しかしだからこそ、発音したときに、私たちはめいめいの語り手が抱いている「帰路」や「不安」や「ひどい戦争」を身体的に感受することができる。朔太郎の詩が示唆していたことだが、病とは、文化的な言説レベルの問題として生起する事象でありながら、その文化の言説編成がどのように身体と接続されていくかが大事なことだ。これら短歌はそういった言説と身体の節合のしかたを、母音のつらなりによってあらわしているとはいえないだろうか。
短歌を口にだして声でよむことは、うつくしい響きといわれがちだけれど、あえて身体にノイズをはしらせることで、声にだしてよんだときに、語り手の苦悶を感受させる短歌もあるのではないだろうか。わたしは、三首の母音短歌に、そのようなことをかんじた。
人家は地面にへたばつて
おほきな蜘蛛のやうに眠つてゐる。
さびしいまつ暗な自然の中で
動物は恐れにふるへ
なにかの夢魔におびやかされ
かなしく青ざめて吠えてゐます。
のをあある とをあある やわあ
もろこしの葉は風に吹かれて
さわさわと闇に鳴つてる。
お聽き! しづかにして
道路の向うで吠えてゐる
あれは犬の遠吠だよ。
のをあある とをあある やわあ
「犬は病んでゐるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのです。」
遠くの空の微光の方から
ふるへる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺傳の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。
犬のこころは恐れに青ざめ
夜陰の道路にながく吠える。
のをあある とをあある のをあある やわああ
「犬は病んでゐるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのですよ。」
萩原朔太郎「遺傳」
まつくろけの猫が二疋
なやましいよるの家根のうへで
ぴんとたてた尻尾のさきから
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』
萩原朔太郎「猫」
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