【感想】ね、春の雨音があるぬばたまのわたしはひとり海鳴りを聴く とみいえひろこ
- 2015/03/24
- 21:58
ね、春の雨音があるぬばたまのわたしはひとり海鳴りを聴く とみいえひろこ
*
M 『かばん』からとみいえひろこさんの一首です。
Y 加藤治郎さんが枕詞を現代短歌のなかで活用することを論じられていたりしましたが、このとみいえさんの短歌にも「ぬばたまの」と枕詞がでてきてますね。
M 「ぬばたまの」は主に黒いもの、「髪」「夜」、あるいは、「夜」に関連する「夢」「月」にもかかる枕詞なんですが、この歌では「ぬばたまのわたし」と「わたし」にかかっています。
Y 現代短歌のなかで枕詞を使うことによってそうした〈黒のイメージ〉を歌のなかに誘い込みながらも、この「わたし」もまた〈黒のイメージ〉の系譜につらなってゆく。そうしたイメージの系譜が枕詞をつかうことによって浮かび上がってきますね。
M ええ、あともうひとつ枕詞でかんがえてみたいのが、「ぬばたまの髪」「ぬばたまの夜」みたいにあることばとことばが磁力のようにくっついてる、そうしたやわらかい桎梏です。ある意味、ことばの約束事ともいえるけれど、でも別のいいかたでいうなら、逃げられないことばの枠組みともいえるわけです。ことばのやくそくごとからわたしは自由にはなれない。それが枕詞でもあるんじゃないかなとおもうわけです。
Y だからこの歌のさいごの「ひとり海鳴りを聴く」っていう孤独感が、そうした枕詞的ことばの桎梏にとらわれた〈孤独〉としても響いているのかな。
M でも、この歌の出だしの「ね、」という〈呼びかけ〉が救いですよね。語り手は、ぬばたまに、言語に、ひとりに、とらわれているかもしれないけれど、その言語によって、〈短歌〉という形式をとおして、呼びかけてもいる。枕詞はやくそくごとだからこそ、だれかと通じる集団的な共有としての〈どこでもドア〉になるんです。
Y 枕詞って、〈どこでもドア〉だったんだ。そういえば、〈どこでも+ドア〉、〈もしも+ボックス〉みたいに、ドラえもんも枕詞的世界観に近いかあ。
M (それは、ちがうよ。Yさん。でも、あえていわないでおくのもありなのかな。短歌の歌学には四次元ポケットみたいに遺産がたくさん詰まっているということなんだろうか。わたしには、わからない。でも、また、あしたも会えるよね。Yさん……)
Y (やだ、きもい、なんかこっちじっとみてる……)
*
とみいえひろこさんからとみいえさんのブログにてていねいな歌評を書いていただきました。ありがとうございました!
かばん3月号 かくれ5首選
いつまでももしかしたらを呉れるからわたしはきょうもかみさまといる 柳本々々
ほんとにそうだな、と思ったので。この方の歌や言葉は、「論理」の背景に情がゆたかに流れていて、それをじっと見つめ、それを確かにえぐりに行ってとってきた、という感じがします。そしていかに率直に置くかということに心がつかわれているようにも思います。「かみさま」と名付けるもの、絶対的なもの、歪んでもその歪みに沿って絶対的であってくれるもの。いつも、到達してはいけないものをかみさまと呼び、「きょう」や「呉れる」という観念をわたしがつくってもよいとゆるしてくれるもの、でしょうか。
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M 『かばん』からとみいえひろこさんの一首です。
Y 加藤治郎さんが枕詞を現代短歌のなかで活用することを論じられていたりしましたが、このとみいえさんの短歌にも「ぬばたまの」と枕詞がでてきてますね。
M 「ぬばたまの」は主に黒いもの、「髪」「夜」、あるいは、「夜」に関連する「夢」「月」にもかかる枕詞なんですが、この歌では「ぬばたまのわたし」と「わたし」にかかっています。
Y 現代短歌のなかで枕詞を使うことによってそうした〈黒のイメージ〉を歌のなかに誘い込みながらも、この「わたし」もまた〈黒のイメージ〉の系譜につらなってゆく。そうしたイメージの系譜が枕詞をつかうことによって浮かび上がってきますね。
M ええ、あともうひとつ枕詞でかんがえてみたいのが、「ぬばたまの髪」「ぬばたまの夜」みたいにあることばとことばが磁力のようにくっついてる、そうしたやわらかい桎梏です。ある意味、ことばの約束事ともいえるけれど、でも別のいいかたでいうなら、逃げられないことばの枠組みともいえるわけです。ことばのやくそくごとからわたしは自由にはなれない。それが枕詞でもあるんじゃないかなとおもうわけです。
Y だからこの歌のさいごの「ひとり海鳴りを聴く」っていう孤独感が、そうした枕詞的ことばの桎梏にとらわれた〈孤独〉としても響いているのかな。
M でも、この歌の出だしの「ね、」という〈呼びかけ〉が救いですよね。語り手は、ぬばたまに、言語に、ひとりに、とらわれているかもしれないけれど、その言語によって、〈短歌〉という形式をとおして、呼びかけてもいる。枕詞はやくそくごとだからこそ、だれかと通じる集団的な共有としての〈どこでもドア〉になるんです。
Y 枕詞って、〈どこでもドア〉だったんだ。そういえば、〈どこでも+ドア〉、〈もしも+ボックス〉みたいに、ドラえもんも枕詞的世界観に近いかあ。
M (それは、ちがうよ。Yさん。でも、あえていわないでおくのもありなのかな。短歌の歌学には四次元ポケットみたいに遺産がたくさん詰まっているということなんだろうか。わたしには、わからない。でも、また、あしたも会えるよね。Yさん……)
Y (やだ、きもい、なんかこっちじっとみてる……)
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とみいえひろこさんからとみいえさんのブログにてていねいな歌評を書いていただきました。ありがとうございました!
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いつまでももしかしたらを呉れるからわたしはきょうもかみさまといる 柳本々々
ほんとにそうだな、と思ったので。この方の歌や言葉は、「論理」の背景に情がゆたかに流れていて、それをじっと見つめ、それを確かにえぐりに行ってとってきた、という感じがします。そしていかに率直に置くかということに心がつかわれているようにも思います。「かみさま」と名付けるもの、絶対的なもの、歪んでもその歪みに沿って絶対的であってくれるもの。いつも、到達してはいけないものをかみさまと呼び、「きょう」や「呉れる」という観念をわたしがつくってもよいとゆるしてくれるもの、でしょうか。
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